海鳴記

歴史一般

島津77万石とは(54) 拾遺4

2009-12-23 12:13:06 | 歴史
 まず、中心街で最初に閉店に追い込まれたのは、鹿児島でももっとも歴史のある書店(注)だった。ここは、それほど広い面積を持つ店ではなかったので目立たなかったが、地階には文庫本や新書版の棚が充実しており、決して私の嫌いな店ではなかった。もっとも、この本屋さんは、学校関係が主な取引先だったようで、別な場所に倉庫兼事務所を構えていたから、倒産というわけではなかった。
 次ぎは、鹿児島で最も知名度の高い春苑堂書店の一部撤退だった。ここは、中心街にそれなりの広さの2店舗を所有していたが、あとから出した店のほうはすぐに閉めてしまったのだ。最初の店のほうは、今でも死守しているようだが、郊外の新興住宅地に雑誌やコミックを主体にした若者向けの本屋を多く作ることに方向転換しているようにみえる。
 もう一軒の老舗である金海堂書店は、ほぼ春苑堂書店本店の横並びにあったが、ここは一見何の変化も見られなかった。もともと、医学専門書や理工系の本が得意だったようで、ここもおそらく公的機関や学校関係が営業のメインだったから、何とか持ちこたえているのかもしれない。

 こうしている間に、奇妙な現象が起った。この回の少し前の(注)で言及した、鹿児島経済界のドン・グループが、自分の系列のホテルの2階に、ワンフロアで九州一広い、と地元新聞社に銘うたせた本屋を開いたのである。
 従来の古本屋の枠を超えた商売をし、地元経済界の大物たちにも顔のきく、あづさ書店主・下園輝明氏から聞いた話では、このグループがホテルの一角に本屋を開くかどうか会議した際、いまどき、返品可能で、1点で2割も儲かる品はない、ということで一決したそうである。
 私は、最初にこれを耳にしたとき、まさに空いた口が塞がらなかった。しかしながら、実際にオープンした店は、私の予想に反して好評だった。本好きを意識した、絶版文庫と銘打った古本の棚などもある、独特の店作りだったからである。ただこれは、あくまで新刊書の中継ぎ店が送りこんだ店長の創意工夫だった。
 それにも関わらずというか、案の定というか、この書店は、私が鹿児島を去って、1、2年後に幕を引いたそうである。つまり、すでに進出していたジュンク堂書店に対抗できるような、「1点売れればその2割儲かる」などというイージーで甘い商売ではなかった、ということだろう。

(注)・・・吉田書店といい、鹿児島大学の丹羽謙治氏によれば、島津斉彬が、藩士2名に書店の開業を命じた記録があり、その片割れの系統ではないか、と推定している。丹羽氏は弊店に顔を出すと、このあたりの史料を求め、またその成果を度々語ってくれていた。いずれ文化史的な視点で、幕末あたりからの鹿児島の出版及び書店の盛衰をモノにしてくれるだろう。


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