海鳴記

歴史一般

奈良原喜左衛門に子供はいたのか(7)

2011-04-16 17:33:55 | 歴史
 今のところ、繁の養子の話は、これぐらいにしておこう。もう一つの収穫というか、奈良原雅雄氏の長男の養親が戸主となっている除籍謄本の内容に移ろうと思う。
 新潟の原田家から送ってもらった謄本の写しは、雅雄氏の長男である隼雄氏が戸主だったせいか、その子孫氏の関係はよくわかったが、雅雄氏に関する記述はそれほどなかった。そのため、最初はトミさんと雅雄氏は結婚したのだろうという予測をしていた。が、弁護士氏が集めてくれた謄本でそれは簡単に崩れてしまった。何と、雅雄氏は長男・隼雄を産んだ中山ハナさんとは別な女性と結婚し、その後トミさんの「養兄」になっていたのである。それも、トミさんの「養兄」になる数ヶ月前の明治22年12(11?)月9日に、本田某の養嗣子になっていたのだ。私には、これで何が何だかわからなくなってしまった。それゆえ私は、この時点で、奈良原家の子孫探索を一時的にストップせざるをえなくなってしまったのである。
 しかしながら、今回、道島五郎兵衛氏のご子孫氏から送られてきた戸籍謄本を見て「両もらい養子」という制度を知り、改めて奈良原家の戸籍の問題を考えてみようと思い直した。

 では、原田家の除籍謄本に記入されている内容をもう一度整理してみよう。
原田雅雄氏が明治18年8月21日に中山ハナさんとの間に、長男・隼雄氏をもうけたことは、前回も繰り返した。
 某弁護士氏から送ってもらった謄本には、まず、翌明治19年8月26日、雅雄氏は中山ハナさんとは別れたのか、橋口平六3女セツさんと結婚していることが記入されている。またその結婚3年後の明治22年12(11?)月9日には、本田(平六)家の養嗣子となっていることがわかる。そして、すでにわかっていたこととして、その3,4ヶ月後の3月26日に、今度は奈良原トミさんが戸主だった奈良原家にトミさんの「養兄」として入籍した。トミさんの跡を継いで新しい「戸主」になっているのである。さらにその4ヶ月後の7月26日には、174坪ほどの鹿児島市内の土地も譲り受けている。
 だから、離婚、結婚のことはともかく、短日時で養子縁組を繰り返した原田雅雄氏という人物はいったい何者なのだ、と言いたくなってしまう。というより、今では、明治10年代から20年代にかけて、言葉もよくわからなかった新潟出身の平民が鹿児島でよくこんな離れ業ができたと感心せざるをえない。



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