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matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

犬山城で国宝5天守制覇

2018-04-28 11:16:43 | 日本100名城




 現存12天守巡りは、姫路城・松江
城・彦根城・松本城・松山城(伊予)
・丸岡城・弘前城に続いて犬山城です。

これで国宝5天守(姫路城・松江城・
彦根城・松本城・犬山城)の登頂を達成
しました。

 犬山

 桜が少し咲き始めた3月半ば(かなり
時間が過ぎてしまいましたが)、犬山城
を訪ねました。

名鉄犬山公園駅で降りて、木曽川遊歩道
を歩いていくと、徐々に犬山城天守が見
えてきました。



1537年(天文6年)、織田信康(信
長の叔父)が木之下城を移して築城した
と伝えられます。

1547年、信康が岐阜の稲葉山城で戦
死すると、子の信清が城主となります。
この後、城主はめまぐるしく入れ替わり
ます。



1584年、小牧・長久手合戦の際には
、羽柴秀吉は大軍を率いてこの城に入り
、小牧山に陣をしいた徳川家康と戦いま
した。

江戸時代になり1617年、尾張藩付家
老成瀬正成が城主となってからは、成瀬
氏が代々受け継いで幕末を迎えました。



明治維新で犬山城は廃城となり、天守を
除いて櫓や門の大部分は取り壊され、公
園となりました。

天守の創建年代については、天正説(1
573-92年)、慶長説(1600年
頃)などいくつかの説があるそうです。



犬山城は別名「白帝城」と呼ばれます。
江戸時代の儒者荻生徂徠が、李白の詩か
らとって命名したと伝えられます。

李白の詩にいう白帝城は、長江の上流四
川省の山地にあり、犬山城の眼下に木曽
川を有する様から例えられたそうです。



天守から見た南方向の風景。

遠方の左側の小高い山が尾張富士(27
5m)。尾張3大奇祭のひとつ石上祭が
8月におこなわれます。



天守から見た西方向の風景。

手前の橋がライン大橋。正面が伊木山(
173m)。山頂付近には戦国時代の山
城、伊木山城跡があり、「夕暮れ富士」と
も呼ばれ親しまれているそうです。

  (撮影日は3月20日)



天空の城、竹田城跡へ

2018-04-21 11:02:06 | 日本100名城



  (竹田駅)

 朝来

 4月上旬、竹田城跡(兵庫県朝来市)
を訪ねました。

三宮から「特急はまかぜ」に乗り、
100分で竹田駅に到着しました。

竹田駅は明治39年開業。駅舎はその
当時のもの。竹田が但馬牛の市場として
栄えたころは、牛専用のヤードがあった
そうです。



登山道はいくつかありますが、最短の
駅裏登山道を選びました。0.9キロ
、約40分とありました。

竹田城は、伝承では1431年頃、山名
宗全が対立する赤松氏への最前線基地の
ひとつとして築城しました。

播磨・丹波・但馬の交通上の要地にあた
ります。



築城当初は土塁の城だったようです。

1577年(天正5年)、羽柴秀吉の
但馬攻略により、羽柴秀長が城代とな
ります。

織豊期以降の竹田城は、最高所の天守台
(標高353m)を中心に置く石垣城郭
となりました。

規模は南北400m、東西100mで、
現存する山城として日本屈指の規模で
す。



最後の城主、赤松広秀は関ヶ原の戦い
では西軍に属し、1600年切腹した
と伝えられます。しかし正式なお墓は
今も見つかっていないそうです。



登山道はかなり急で、息をきらしながら
休み休み登りました。

竹田城の門をつくるため、巨岩を大勢の
人夫によって、中腹まで引き上げました
が、そこから先は引き上げられず放置し
た岩が「千石岩」といわれるそうです。

それまで使ったお金をお米に換算すると
千石分になるとか。



例年なら満開の桜が見られる時期ですが
、今年は1週間ほど早く、風雨ですでに
散っていました。



天守台に登ると、竹田城廃城後、宿場町
として栄えた竹田の町並みが見えました


春は桜、夏は新緑、秋は雲海、冬は雪景
色と、さまざまな表情をみせます。



帰りも駅裏登山道を下り、竹田駅から
1駅の和田山駅前のホテルにチェック
イン。

友人のF氏(朝来市在住)に連れられて
焼肉店で夕食。但馬牛のオーナーが直営
する「太田屋」です。

但馬牛は松坂牛や近江牛の素牛となる、
最高品質の和牛です。

尚、朝来市は「2018年版住みたい田
舎ベストランキング」(宝島社)で、近
畿エリア1位となっています。



武田氏最期の城、新府城

2018-04-07 10:55:18 | 日本100名城




 新府

 3月末のよく晴れた日、新府城跡(山
梨県韮崎市)を訪ねました。

JR中央本線新府駅(無人駅)で下車、
10分程歩くと新府城跡の石標がありま
した。

赤い鳥居の先の長い階段を上ると、本丸
跡地に藤武稲荷神社が建立されています




新府城は、甲府盆地西部の七里岩台地上
に立地する平山城。石垣は使われていま
せん。

七里岩突端部の南北7~8キロ、東西2
キロという周辺の自然地形全体が軍事的
意味をもつ大規模な城です。

武田家を代表する甲州流築城術の集大成
となる城といわれています。

戦国期に拡大した武田領国においては中
枢に位置します。



武田勝頼が、1581年(天正9年)か
ら築城を開始し、年末には普請なかばで
入城しました。

1582年織田・徳川軍の甲斐侵攻によ
り、勝頼は未完の城ではもはや大軍を支
えきれないと判断、3月岩殿城に移るた
めに、城に火をかけます。

勝頼は武田氏ゆかりの天目山(甲州市)
へ追い詰められ、28代続いた名門武田
氏は滅亡します。495年目の落日です


辞世は「おぼろなる月もほのかに雲かす
み晴れて行くへの西の山のは」

享年37.


  (武田勝頼公霊社)

同年6月には本能寺の変により信長が
死去。

徳川家康と北条氏直が甲斐へ侵攻。
徳川勢は新府城を本陣とします。

10月には徳川・北条同盟が成立し、
北条勢は甲斐から撤兵しました。



関ヶ原の戦いを経て、甲斐は徳川氏が領
し、甲府城が甲斐の政治的中心地となり
、新府城は廃城となりました。



近年発掘調査により、土塁や堀跡などの
遺構が確認できるようになりましたが、
門や建物の痕跡は確認できていないそう
です。



新府駅で次の列車を30分程待ちました。

ホーム間近に満開の桜、遠方には残雪の
八ヶ岳連峰が見えました。

(新府城は「続日本100名城」に選定
されていますが、本ブログでは便宜上、
「日本100名城」ジャンルに入れまし
た。)

家康誕生の城、岡崎城

2018-04-01 10:48:32 | 日本100名城




 岡崎

 3月中旬、岡崎城を訪ねました。

名鉄東岡崎駅から歩いて15分です。

15世紀中頃(室町時代)、三河国守護
代西郷氏が、龍頭山の砦として築城した
のがはじまりです。

1531年に松平清康(家康の祖父)が
城主となり、1542年に城内で徳川家
康が誕生しました。


  (産湯の井戸)

家康は6歳で織田信秀(信長の父)、8
歳で今川義元の人質となり、少年期を他
国で過ごします。

1560年の桶狭間の合戦で、今川義元
が戦死したことを契機に自立します。と
きに19歳。岡崎城を起点に天下統一へ
の道が始まりました。

1570年には、本拠を遠江の浜松城へ
移し、子の信康が岡崎城に入りました。



江戸時代に入ると、「神君出生の城」と
して神聖視され、本多氏(康重系統)、
水野氏、松平氏、本多氏(忠勝系統)と
家格の高い譜代大名が城主となりました


三河武士とは、家康に仕えて江戸幕府創
業に貢献した譜代の三河出身の家臣の総
称です。

三河出身の親藩、譜代大名は279藩の
うち123藩を数えたそうです。

城郭の大部分は明治6~7年に取り壊さ
れましたが、天守閣は1959年(昭和
34年)、ほぼ昔どおりの外観で復興さ
れました。


  (しかみ像)

1572年、武田信玄は遠江に侵入し、
浜松城に迫りました。
三方ヶ原に家康を誘い出し大敗させ、城
に逃げ帰った家康は、将としての冷静さ
を失い多くの家臣を失った自分を反省し
ます。

家康が描かせたと伝えられる、顔をしか
めて苦渋の表情をあらわした珍しい肖像
画を基に、この石像は製作されました。


  (神代桜)

家康像の近くにある神代桜がきれいに
咲いていました。


  (遺訓碑)

天守への入口付近には、有名な家康の
遺訓が碑になっています。

「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが
ごとし。いそぐべからず、不自由を常と
おもえば不足なしこころに望おこらば困
窮したる時を思いだすべし、堪忍は無事
長久の基、いかりは敵とおもえ勝事ばか
り知りてまくる事をしらざれば害其身に
いたる、おのれを責て人をせむるな、及
ばざるは過ぎたるよりまされり。」



岡崎公園は、日本さくら名所100選に
選ばれた桜の名所です。ちょうど今頃が
見頃でしょうね。

  (撮影日は3月19日)






弘道館と水戸城址

2018-03-25 11:04:26 | 日本100名城




 水戸

 弘道館は、徳川斉昭が1841年(天
保12年)に創建しました。

建学の精神は「神儒一致」「忠孝一致」
「文武一致」「学問事業一致」「治教
一致」の5項目として示されています。

藩士に文武両道の修練をつませようと
武芸一般はもとより、医学・薬学・天
文学・蘭学など幅広い学問をとりいれ
た、総合大学というべきもので、藩校
としては国内最大規模のものでした。


  (正庁・至善堂)

最後の将軍、徳川慶喜(斉昭の七男)も
五才から11才までここで学びました。
大政奉還後、水戸へ帰り4ヶ月間、厳し
い謹慎生活を送りました。



幾度の戦火を免れた正門、正庁及び至善
堂は往時の姿を今に伝えています。

梅樹約60品種800本が植えられ、梅
の名所となっています。



旧三の丸の弘道館を出て、大手橋を渡る
と旧二の丸で、現在は文教地区になって
います。

大手門の復元工事が行われています。


  (彰考館跡)

彰考館は、第2代藩主徳川光圀がはじめ
た「大日本史」の編集所です。光圀に招
かれた明の儒学者朱瞬水は、水戸藩の修
史事業に大きな影響を与えました。

当初は江戸小石川の藩邸内におかれまし
たが、1698年(元禄11年)水戸城
に移されました。

この事業が完成したのは1906年(明
治39年)のことで、実に250年の歳
月を費やしたそうです。


  (薬医門)

水戸城は、名古屋城(尾張)、和歌山城
(紀州)と比べると、天守はなく質素で
政庁としての性格が強かったそうです。

1868年(明治元年)、藩内の対立で
弘道館に立てこもる諸生党を天狗党が攻
撃、この際に城内の多くの建物が焼失し
ました。

3重5階建ての三階櫓は、1945年の
水戸空襲で焼失しました。

ほとんどの建築物が焼失した中で、薬医
門のみ現存し、旧本丸にある水戸第一高
等学校に移築されています。