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matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

四国の名城ー徳島城

2018-11-08 11:03:13 | 日本100名城



  (竜王さんのクス)

 10月下旬、四国の徳島・高知を
旅しました。

 徳島

 「竜王さんのクス」は、城山で最大の
クスノキの古木で、樹齢600年くらい。
近くに竜王神社があったことから、こう
呼ばれました。昭和9年の室戸台風で倒
れました。

徳島城は、JR徳島駅の北側、標高61
メートルの城山に築かれた山城と周囲の
平城からなる平山城です。

城跡は徳島中央公園として整備されてい
ます。


  (鷲の門)

鷲の門は蜂須賀氏が正門として建てまし
た。明治維新の廃城令により、鷲の門を
除くすべての建築物が撤去されました。

鷲の門も昭和20年の徳島大空襲により
消失し、現在の門は平成元年に復元され
たものです。



この地は、鎌倉時代より伊予国の河野氏
が支配し、室町時代に細川頼之が城山に
小城を築きました。

戦国時代になると、阿波の地は群雄割拠、
城主が入れ替わります。



1582年(天正10年)、土佐国の
長宗我部元親が侵攻し、阿波が平定さ
れます。


  (蜂須賀家政の銅像)

1585年の豊臣秀吉の四国攻めで蜂須
賀家政が入城、中世に築造された城を修
築して徳島城としました。以後、江戸時
代を通して、徳島藩蜂須賀氏25万石の
居城となりました。

阿波踊りの起源について、徳島城が竣工
した際、家政が城下に「城の完成祝いと
して、好きに踊れ」という触れを出した
ことが発祥という説もあります。


  (本丸跡)

徳島城の山城は連郭式であり、いくつか
の曲輪が段差を持って連続していました。
西から順に、三の丸、西二の丸、本丸、
東二の丸です。

1588年に天守が築かれますが詳細は
不明。元和年間(1615-1624年)
に取り壊されたとされます。

城山では、夏になると阿波踊りの有名連
がここで練習している風景が目立つそう
です。


  (城山の貝塚)

城山の貝塚は、約4000~2300年
前の縄文時代後期~晩期の遺跡です。


「赤い靴」など作詞した野口雨情は、昭
和11年2月この地を訪れ、歌を詠みま
した。

「むかし忍んで徳島城の
   松に松風絶へやせぬ」

徳島駅から城跡へ向かう歩道橋の近くに
歌碑が建っています。



仙台、夏の終わりにその1-青葉城址

2018-09-12 11:12:01 | 日本100名城




 仙台

 8月末、仙台を訪ねました。

新幹線で昼過ぎに仙台到着。仙台駅内の
すし通り、「寿司処 こうや」で昼食を
とりました。鮮度のよい寿司はなかなか
美味でした。

西口でバス「るーぷる仙台」に乗り、瑞
鳳殿前で下車。



杉並木の参道を進むと、桃山文化の遺風
を伝える豪華絢爛な霊屋が現れました。



瑞鳳殿は1636(寛永13)年、70
才で生涯を閉じた伊達政宗の遺命により
、翌年経ヶ峯に造営されました。

戦災で焼失しましたが、1979年に再
建されたものです。


再びバスで仙台城跡まで。

青葉山には、伊達氏以前から城があり、
千体城後に千代城と称していました。


  (伊達政宗騎馬像)

政宗が仙台に居城を移したときに詠まれ
た和歌。

「入そめて くにゆたかなる みぎりと
や 千代とかぎらじ せんだいのまつ」

もともとこの地は、千代(せんだい)と
いいましたが、「千代(ちよ)と限らじ
」とよみ、せんだい=千代にかけて、「
1000年の世といわず永年に栄あれ」
との願いをこめました。

現在、青葉山公園として整備されていま
すが、城内に残された建造物は第二次世
界大戦頃までにすべてが失われました。


  (石垣)

出羽国米沢を本領としていた政宗は、秀
吉に服属すると、1591年陸奥国岩出
山に転封を命ぜられます。

関ケ原の合戦では家康方に付き1601
年河川舟運や海運の便のよい仙台に本拠
を移します。


  (本丸跡)

新田や金山の開発を促進し、62万石の
国づくりに励みます。貿易にも執心しま
すが、南蛮船は仙台領の港には遠すぎて
来航しません。

このことが慶長遣欧使節(1613-
1620年)の派遣へとつながります。

(参考文献:平川新「戦国日本と大航海
時代」中公新書)


八戸から山形へその2-多賀城

2018-07-06 10:59:56 | 日本100名城




 盛岡に1泊して、2日目は仙台へ向か
いました。

 多賀城

 仙台からJR東北本線で国府多賀城駅
まで。

徒歩5分のあやめ園では「多賀城跡あや
めまつり」が開催中でした。
あやめ・花菖蒲など800種、300万
本が咲き乱れています。

6月24日(旧暦5月8日)、松尾芭蕉
は「おくのほそ道」の旅で、「壺碑(つ
ぼのいしぶみ)」を目指し、仙台を立つ
際に「あやめ草足に結ばん草鞋の緒」の
一句を詠んでいます。


  (多賀城碑)

多賀城碑は奈良時代の古碑。碑面には
141文字が刻まれており、多賀城の
創建や修造について記されています。



歌枕の「壺碑」とも呼ばれ、芭蕉は「お
くのほそ道」の旅路で訪れ、涙が流れそ
うになるくらい感動したことを記してい
ます。

壺碑とは、坂上田村麻呂が大きな石の表
面に、矢尻で文字を書いたとされる石碑
。多くの歌人が和歌に詠いました。江戸
時代の初め頃、多賀城碑が発見されると
、多くの人から「つぼのいしぶみ」であ
るとされました。


  (政庁跡)

多賀城は724年に創建され、陸奥国府
と鎮守府が置かれた古代国家による東北
支配の要衝でした。

約900m四方に及ぶ多賀城跡の中央に
は約100m四方の政庁跡があります。


  (政庁正殿跡)

平城宮跡、大宰府跡とともに日本三大史
跡の一つに数えられています。

平安時代に都の貴族たちは、この地を「
みちのく」の名であこがれ、国府の官人
だけでなく幾人もの歌人が歌を詠んでい
ます。


  (政庁復元模型)

802年に胆沢城が造営されると、鎮守
府はここに移され、国府多賀城は胆沢城
鎮守府を後方から守る役割になりました




陸奥国は、蝦夷との戦争をへてしだいに
領域を北に拡大し、版図の拡大には城柵
(軍事的防御施設)を設置する政策がと
られました。

古代には東北の拠点であった多賀城は、
10世紀にはその歴史的役割を終えまし
た。



八戸から山形へその1-根城

2018-06-30 10:53:34 | 日本100名城



  (南部師行像)

 6月下旬、東北を旅しました。
梅雨の時季ですが、幸い雨には降られま
せんでした。

 八戸

 1日目は東北新幹線で八戸まで。
駅前でバスに乗り、約15分で根城(博
物館前)下車。

根城は1334年(建武元年)、南部師
行によって、北奥羽の支配拠点として築
城されたと伝えられます。


  (根城の広場入口)

南部氏は、甲斐国(現在の山梨県南部町
・身延町)に拠点を置いた有力な鎌倉御
家人であり、南北朝の時代には北畠顕家
に従い、奥州における南朝方の中心的存
在として活躍しました。

南部師行は1338年、北畠顕家と共に
泉州石津(堺市)で討ち死にしますが、
その後も根城は子孫によって守られ、南
北朝の戦乱を耐え抜きました。

秀吉の時代、根城南部氏は同族の盛岡南
部氏の家臣格となり、やがて1627年
遠野へ領地替えとなり、根城は約300
年の歴史的役割を終えました。


  (本丸跡復元模型)

中世城郭としての根城跡は、昭和53年
から11年間の発掘調査、その後9年間
の復原整備によって完成しました。

復原整備は、安土桃山時代を対象に行わ
れました。


  (主殿)

主殿は、当主が来客と接見したり、さま
ざまな儀式を執り行うための建物と考え
られます。




  (広間での正月の儀式の様子)

建物の中は、大きな部屋が規則正しく並
んでいて、土間の台所のほかは板じきに
なっています。

畳は、特別な会見や儀式の時にだけ出し
て使われたようです。





根城は本丸のほか、中館・東善寺館など
合わせて8つの郭からなる平城で、21
万平方メートルの城跡です。

石垣に囲まれ櫓や天守閣がそびえる城よ
りも古い時代の、日本でも数少ない中世
城郭の特徴をよく伝えています。


岡山の旅その1-備中松山城

2018-05-26 11:45:38 | 日本100名城



  (石垣群)

 5月中旬、岡山を旅しました。

現存12天守巡りは、姫路城・松江城・
彦根城・松本城・松山城(伊予)・丸岡
城・弘前城・犬山城に続いて備中松山城
です。

 高梁

 備中高梁駅から、ふいご峠(8合目)
まで乗合タクシーに乗り、そこから約
20分歩きました。

備中松山城は、4つの峰からなる臥牛山
の小松山の山頂(標高430m)に築か
れた城で、天守の現存する山城として随
一の高さを誇ります。


  (三の平櫓東土塀)

高取城(奈良)、岩村城(岐阜)ととも
に日本三大山城の一つに数えられます。

1240年、承久の乱で戦功のあった秋
庭三郎重信が地頭として赴任。臥牛山大
松山に砦を築いたのが始まりとされてい
ます。

その後、小松山に移り、城の縄張りは時
代と共に変化し、幾度の盛衰を繰り返し
ました。


  (天守)

なかでも1574年(天正2年)に起こ
った「備中兵乱」は有名で、「砦二十一
丸」と呼ばれた出丸が築かれ、一大要塞
となっていました。

三村元親は宇喜多直家に父家親を暗殺さ
れ城主に。毛利氏から離反、織田信長に
寝返ると、毛利と宇喜多が同盟を結び、
8万の大軍により落城ついに自害します
。三村氏は滅亡。



元親の辞世は
「ひとたびは 都の月と思ひしに
 われ先づ 夏の雲にかくるる」

「人といふ 名をかる程や 末の露
 きえてぞかへる もとの雫に」

関ケ原合戦まで毛利氏の備中の拠点と
なりました。


  (天守内部)

江戸時代に入ると、池田・水谷・安藤・
石川・板倉と城主が変わり、明治維新を
迎えます。

現存する天守などは、1683年(天和
3年)水谷勝宗により修築されたものと
伝えられています。


  (二重櫓)

幕末、板倉勝静は徳川慶喜を補佐し老中
首座へ。山田方谷を登用し藩政改革に成
功。

戊辰戦争で朝敵とされた松山藩は山田方
谷の決断で無血開城します。


 (山田方谷像)

高梁駅前に方谷像が建っていました。

方谷は財政再建、特産品の生産・販売、
旧弊の打破など斬新な改革に取り組みま
した。

方谷の残した言葉に、「総じて善く天下
の事を制する者は、事の外に立ちて、事
の内に屈せず」、
又、「至誠そくだつ」(真心といたみ悲
しむ心があれば、物事はうまく運ぶ)、
「義を明らかにして利をはからず」
などがあります。

(山陽新聞、5月16日「人生を語る」より
引用しました。)