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matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

水戸偕楽園の梅

2018-03-18 10:47:18 | 日本100名城




 水戸

 3月上旬、梅の香漂う水戸を訪ね
ました。

梅まつり期間中とあって、臨時駅の
「偕楽園」駅に停車しました。

偕楽園は後楽園(岡山)、兼六園(
金沢)と並ぶ日本三名園の一つです。



1842年(天保13年)、第9代藩主
徳川斉昭が創設しました。

偕楽園の名称は「孟子」の「古の人は民
と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむ
なり」という一節からとったものです。

当初から毎月「三」と「八」が付く日に
は領民にも開放されていたそうです。



100種3000本の梅が植えられて
います。

梅は春の魁として清らかな花を咲かせ、
実は梅干にして軍旅の用や飢饉の時の
非常食となることから、実用を重んじ
た斉昭は梅を愛し、領内に広く植樹す
ることを奨めました。



徳川斉昭(1800-1860年)は
「幕末の賢候」といわれています。
開国には反対でしたが、西洋の文物を
取り入れることには積極的でした。

藤田東湖らを登用して藩政を改革。
全領検地、弘道館建設、江戸常府制廃
止、大規模軍事訓練、西洋近代兵器の
国産化など、その影響力は幕府のみな
らず全国に及びました。

宗教的には仏教抑圧、神道重視の政策
をとりました。しかし極端な排仏など
政策の過激さにより、1844年には
幕府から致仕謹慎を命じられ、藩主を
退きました。


  (好文亭)

「好文亭」は、偕楽園内に休憩所として
建てられ、素剛優雅な外観は水戸武士の
風格がただようともいわれます。

その名は梅の異名「好文木」に由来しま
す。



1853年にペリーが浦賀に来航すると
、斉昭は老中阿部正弘の要請により、海
防参与として幕政に関わります。

しかし南紀派の井伊直弼と対立し、安政
の大獄では、水戸城に永蟄居(終身刑)
を命じられます。

1860年(万延元年)の桜田門外の変
の数ヶ月後、水戸城内で死去します。

  (続く)

福山・尾道の旅ー福山城

2018-03-05 11:16:36 | 日本100名城




 2月下旬、早春の福山・尾道を旅し
ました。

 福山

 福山駅に夕方到着しました。間近に
福山城が見えます。



福山城は、1619年に備後10万石
の大名として入封した水野勝成(徳川
家康の従兄弟)が、1622年に築い
た城です。

毛利氏など西日本の有力外様大名に対す
る抑えとして、又西国街道と瀬戸内海の
要衝を護る城として、幕府に期待されま
した。


  (伏見櫓)

近世城郭円熟期の代表的遺構で、大規模
な新規築城では最後の例といわれます。

五重の天守と七基の三重櫓を有していま
した。


  (筋鉄御門)

徳川秀忠が京都伏見城の松の丸東櫓を
移建させたという伏見櫓は、安土桃山
時代の気風をよく示しており、筋鉄御
門(すじがねごもん)とともに、国の
重要文化財に指定されています。

築城当初は海とつながっており、舟で
直接城に行くことができたそうです。

水野氏断絶の後、松平氏、阿部氏と続き
廃藩置県(1871年)に至るまで藩治
の中心でした。

幕末のぺりー来航当時に老中として幕政
を主導していた阿部正弘は、この福山藩
の藩主です。


  (阿部正弘像)

1873年(明治6年)、廃城となり、
多くの建物が取り壊されましたが、本丸
の天守、筋鉄御門、伏見櫓、湯殿、鐘櫓
の5種の建築物は残されました。(天守
以外は伏見城から移築といわれていまし
た。)


  (天守閣)

しかし、1945年8月8日の福山大
空襲によって、伏見櫓・筋鉄御門を残
して焼失しました。

戦後の1966年に市制50周年事業
として天守閣と湯殿が再建されました。

天守閣内部は歴史博物館になってますが
、この日は門限を過ぎており、入場でき
ませんでした。

最上階からの瀬戸内海の絶景は残念なが
ら見られません。

3月下旬~4月上旬にはソメイヨシノや
サトザクラ、ヤマザクラなど約300本
の桜が鑑賞できるそうです。

雪の鶴ヶ城

2018-02-12 11:23:06 | 日本100名城




 東北旅2日目は仙台から会津若松へ
向かいました。

 会津若松

 駅に着き周遊バスを待ちますが、雪の
為大幅に遅れてます。

やっと来た「あかべぇ」に乗り、「鶴ヶ
城入口」で下車。

若松城は地元では鶴ヶ城と呼ばれていま
す。



14世紀、蘆名直盛が築城した東黒川館
が始まりとされています。

蘆名氏は、関東の名族三浦氏からの分流
で、室町期に会津守護として現れ、戦国
期には伊達氏と並び称されるほどの勢力
を誇りました。

しかし1589年、伊達政宗が蘆名氏を
滅ぼし、黒川城を手にします。

政宗は秀吉に臣従し、会津を召し上げら
れます。



蒲生氏郷は天守閣を設け、近世城郭に改
造。城下町を整備し、町の名を黒川から
「若松」へと改めます。

一時上杉景勝が120万石で入封するも
、家康は西軍に加担した景勝を30万石
に下げ、米沢に移封します。

1643年に保科正之(家光の弟)が
23万石で入封、以後会津松平家の居城
とまりました。


  (白虎隊十九士のおもかげ)

1868年(明治元年)の戊辰戦争では
、5千人の老若男女が1ヶ月間籠城しま
したが、ついに降伏、開城しました。



現在の天守閣は、1965年に造られ、
内部は博物館になっており体験型の学習
ができます。


  (天守閣最上階から)

1990年には茶室「麟閣」が移築復元
されました。

蒲生氏郷は千利休が自害したのち、利休
の茶道が途絶えるのを惜しんで、その子
少庵を会津に匿い、家康と共に千家復興
を秀吉に働きかけました。

その後、3人の孫によって裏・表・武者
小路の3千家が興されました。

「麟閣」は氏郷少庵ゆかりの茶室です。


  (麟閣)

「麟閣」の南側に「荒城の月」の歌碑が
あるとのことで探しましたが、雪が深く
てあきらめました。

土井晩翠が詞を構想したとされる、仙台
の青葉城址とここ鶴ヶ城址に歌碑が設置
されているとのことです。

話がいささか脱線しますが、ジャズピア
ニストのセロニアス・モンクは「荒城の
月」を「Japanese Folk
Song」としてとりあげているそう
です。

映画「ラ・ラ・ランド」ではこの
バージョンが使用されています。

新潟から青森へその2-弘前城

2017-10-09 11:48:31 | 日本100名城



 (二の丸南門)

 現存12天守巡りは、姫路城・松江城
・彦根城・松本城・松山城(伊予)・
丸岡城に続いて弘前城です。

 弘前
 
 新潟から弘前へ向かいました。
雨はあがり、気持ち良い秋の空が広がっ
ています。

弘前城は弘前藩4万7千石の居城として
廃藩に至るまでの260年間、津軽地方
の政治経済の中心地でした。

創建当初の総面積は38万5千平方メー
トル。

司馬遼太郎は「街道をゆくー北のまほろ
ば」で「日本7名城の一つ」と紹介して
います。


 (下乗橋から)

1590年、南部氏に臣従していた大浦
為信(のち津軽に改姓)は、小田原征伐
の際に秀吉より4万5千石の所領安堵の
朱印状を受けました。
南部氏も小田原に急行しましたが、時す
でに遅く、津軽は為信が獲得しました。

津軽氏は伊達・南部・戸沢・佐竹などの
諸氏と肩を並べる近世大名として発足す
ることになりました。


 (津軽為信公の像)

1600年、為信は関ヶ原の戦いで東軍
につき、2千石の加増を受け4万7千石
の弘前藩が成立しました。

弘前城は為信が計画し、2代藩主信枚が
着手し、1616年に完成しました。


 (現存天守)

当初の天守は1627年落雷で焼失しま
したが、現存天守は1810年天守櫓造
営の目的で幕府の許可を得て建てられた
ものです。

地元では天守と呼ばず、「御三階」櫓と
呼んでおり、本当の天守は消失した五層
天守であったとしているそうです。



現在は100年ぶりの石垣修理のため、
天守は本丸の内側に約70m移動して
います。

本丸は四方に石垣が築かれ、藩政時代
には御殿や能舞台が建てられていまし
た。

ここから望む岩木山(標高1625m)
は絶景です。



弘前は「東北の京都」ともいわれ、太宰
治は自伝的小説「津軽」(1944年)
のなかで、弘前の悪口もいいつつ、「こ
こは津軽人の魂の拠りどころである」と
もいっています。

「あれは春の夕暮だったと記憶している
が、弘前高等学校の文科生だった私は、
ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一
隅に立って、岩木山を眺望したとき、ふ
と脚下に、夢の町がひっそりと展開して
いるのに気づき、ぞっとしたことがある
。(中略)お城のすぐ下に、私のいまま
で見た事もない古雅な町が、何百年も昔
のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそ
めてひっそりうずくまっていたのだ。・
・・・・・」
 (「津軽」より一部引用させてもらい
  ました)

新潟から青森へその1-新発田城

2017-10-02 08:37:48 | 日本100名城




 9月上旬、新潟(新発田)・青森
(弘前)を旅しました。

 新発田

 新潟駅から白新線に乗り新発田駅で
下車。

駅前で昼食をとりますが、雨は止みそう
にありません。タクシーで新発田城まで
行きました。

表門前で下車すると、堀部安兵衛の像が
雨に濡れて立っています。


 (辰巳櫓)

辰巳櫓の管理責任者であった安兵衛の父
中山弥次衛門は、櫓の失火の責任を負い
浪人となり、安兵衛は18歳で江戸に出
ます。

赤穂藩主浅野内匠頭と新発田藩主の孫、
溝口宣就は親戚同士で、大目付の宣就が
安兵衛と知り合いで、討ち入りにも関与
していた可能性ありとの最新の研究もあ
ります。
 (読売新聞 2017.9.8付)


 (辰巳櫓内部)

新発田城は鎌倉時代より新発田氏の居城
でした。

1581年新発田重家が信長の越中・越
後侵攻に呼応して上杉景勝に対して反乱
を起こしました。

しかし信長没後は孤立し、1587年
新発田氏は滅亡します。

1598年、溝口秀勝が秀吉の命により
加賀国大聖寺から新発田に入封しまし
た。

歴代藩主は河川改修や干拓などの治水と
新田開発に努め、美田の広がる地へと変
貌させました。


 (旧二の丸櫓内部)

1873年(明治6年)廃城令により、
大半の建物が破却されました。

城跡には陸軍の歩兵第16連隊が置かれ
ました。
現在も大部分は陸上自衛隊の新発田駐屯
地となっています。


 (旧二の丸櫓内部)

平成16年に三階櫓と辰巳櫓が復元され
ました。

天守閣の代わりを果たしていた三階櫓は
、3匹の鯱を配するという独特の櫓で
す。(内部は通常は公開されてません)


 (三階櫓)


雨天の撮影に苦労しましたが、夕方新潟
に戻りました。

旅の楽しみの一つは、地元の美味しい肴
と地酒を探して「居酒屋」に入ること。

ホテル近くの「あづま亭」という店に入
りました。

カウンターでほっと一息つきながら飲ん
でいると地元の2人連れの方に声をかけ
られました。

しばしお城談義をしていると、途中から
板前さん(新発田出身)も話の輪に加わ
り、何だか楽しくなってきました。

人情あふれる新潟の夜でした。

 あづま亭 中央区東大通り1-7-1