
水戸
3月上旬、梅の香漂う水戸を訪ね
ました。
梅まつり期間中とあって、臨時駅の
「偕楽園」駅に停車しました。
偕楽園は後楽園(岡山)、兼六園(
金沢)と並ぶ日本三名園の一つです。

1842年(天保13年)、第9代藩主
徳川斉昭が創設しました。
偕楽園の名称は「孟子」の「古の人は民
と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむ
なり」という一節からとったものです。
当初から毎月「三」と「八」が付く日に
は領民にも開放されていたそうです。

100種3000本の梅が植えられて
います。
梅は春の魁として清らかな花を咲かせ、
実は梅干にして軍旅の用や飢饉の時の
非常食となることから、実用を重んじ
た斉昭は梅を愛し、領内に広く植樹す
ることを奨めました。

徳川斉昭(1800-1860年)は
「幕末の賢候」といわれています。
開国には反対でしたが、西洋の文物を
取り入れることには積極的でした。
藤田東湖らを登用して藩政を改革。
全領検地、弘道館建設、江戸常府制廃
止、大規模軍事訓練、西洋近代兵器の
国産化など、その影響力は幕府のみな
らず全国に及びました。
宗教的には仏教抑圧、神道重視の政策
をとりました。しかし極端な排仏など
政策の過激さにより、1844年には
幕府から致仕謹慎を命じられ、藩主を
退きました。

(好文亭)
「好文亭」は、偕楽園内に休憩所として
建てられ、素剛優雅な外観は水戸武士の
風格がただようともいわれます。
その名は梅の異名「好文木」に由来しま
す。

1853年にペリーが浦賀に来航すると
、斉昭は老中阿部正弘の要請により、海
防参与として幕政に関わります。
しかし南紀派の井伊直弼と対立し、安政
の大獄では、水戸城に永蟄居(終身刑)
を命じられます。
1860年(万延元年)の桜田門外の変
の数ヶ月後、水戸城内で死去します。
(続く)