GWも終わって今日から仕事 めんどくさいな
2日間だけなので身体慣らしには丁度いいか
病院忙しそうだから頑張って仕事片づけてきましょう
このところずっとアップしてる夕陽まだ2/3ぐらいかな延々と続きます
なんせ4月天気が良くてほぼ毎日行けたんです
ただし4月も半ばを過ぎてもうダルマは絶望的
晴れたら惰性で走る ほぼ条件反射の域(笑)
22日
この日から風が強く気温が下がり始めた
もう赤松からは佐田岬にかかって見えない時期この日は堂崎の海岸から狙う

早く着いて時間があったので久しぶりにすぐ上にあるお寺に行ってみる

昔はこのお寺有名で小学生の遠足で必ず行ってた場所
市指定天然記念物 ウバメガシ樹叢がある場所
もう一つ
平家の落人伝説がある場所

平家の残党探索のため、源氏方の五郎吉武の一隊は豊予海峡を経て九島沖で舟影を発見追跡し、堂崎に接近すると無人の二艘の舟が漂っていた。三方に分かれ辺りをくまなく捜索したが、落人はいない。探しあぐねた吉武らはお堂で昼食をとったが、その時天井の節穴からのぞく紅の布を目にとめた。こうして天井裏に隠れていた平家の幼い公達と五人の女房は捕らえられ、波打際の大岩で斬られた。すぐ近くの小高島に潜んでいた平家の落武者らは、この有様を見て一矢報いんと刀を口にくわえて堂崎目指して泳いできたが、これも源氏方の放つ矢に残らず射殺されてしまった。
事静まって後、吉武は世の無常なるを思い幼き公達・女房らおよび討死した武者たちの後世を弔うことを決意、観音堂の後方に五輪の塔を建立、お堂に籠って念仏三昧、仏像を彫り修行を積んだ末ここで没したという。
以後、堂崎観音の参詣には赤色系の着衣が禁忌となり、さらに堂崎の樹木は倒木であっても持ち出すことを禁じたとも伝えられている。

これ長いから読むの大変なんですよね
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この地の古き歴史の中に、遠き寿永の昔をしのび、新平家物語にゆかり深き此の史伝を標示し、ここに訪れる各位の参考に資する。宇和島市長(中川 千代治)
堂崎観音の由来
この伝説は、亡びゆく平家一門の悲運を乗せて繰り広げられる。源平一の谷の合戦及び、平家没落の壇の浦の戦いを背景とする。
寿永三年二月六日、源義経が一の谷の背面鵯越の𡸴を馳下り、平家の陣の不意を衝いて、見事に敗走させた物語は、普く(あまねく)世人に知らしているところであるが、この時大将義経に従う武将の一人に?五郎吉武なる者がおった。背後を衝かれて周章狼狽、崩れ立って海上に走る軍勢の中に、さすが名を惜しむ平家の武士は、踏み止まって戦い、源平互いに斬り結ぶ凄壯(せいそう)な修羅場となった。この時単身海辺に馬を進めた五郎吉武は、ふと彼方の陸地から此方を指してまっしぐらに駆け耒った敵武者一騎をみとめた。敵のいでたちは赤地錦の垂直に萌黄縅の鎧をつけて鍬形打つたる甲の緒を締め、嚴物作りの大太刀を佩ち、滋藤の弓を小脇にかこいこみ、連銭葦毛の駒に跨り、眉濃く目元涼しく、色あくまで白き顔に血に濡れた鬢髪をなびかせた優美の中に威風ある世にも稀な武者振りであった。
両者は互いに名乗りあうを聞けば、彼こそ平家の大将平知盛卿の臣として世に聞こえし剛の者、山名三郎幸兼であった。幸兼の天晴手練の大太刀の冴えはとても吉武の及ぶところでなく、今や危なく見えた時、勝ちに乗った幸兼に振りかぶった太刀の手をひ構えて、「今まで我に向かいかくまで戦い得た者はなし、天晴れの武者振り哉、この者一人を打ち取ったりとて平氏の武運にかかわりもなからん。あたら命を惜しむべし。」と一言を残して海中めざして駒をすすめ、沖の兵船の中に姿は見えなくなった。
後に残された五郎吉武は、危なき所を敵の情けに助けられ、末代までの恥辱と無念の涙にくれていたが、ややあって屹度思案の臍を固め、今日の恥辱を雪ぐためには、後日幸兼殿の危急を救うことより外に手段はないと深く心に誓うのであった。
かくて吉武は主君義経に願い出て、屋島、壇の浦と落ち行く平家追討の勢に加わり、めざす幸兼との再会を念じたが、遂に西海に平氏一門が亡び去るまで、幸兼にめぐりあうことはできなかった。
武士の意気地、吉武の心中は悶えたが詮すべもなく、失意の底に沈みきった時、はるかに落日を負うて点々と落ちてゆく平家方の小舟をみとめた。「もしかして、あの中に幸兼殿が在られるのではないか。」と、一縷(いちる)の望みをつないでそのあとを追うことにした。勇み立精兵三十名を三艘の舟に分乗させ、豊予の海峡をすぎ、宇和海深く南下し、四日目の暁遂に九島沖、野島の沖合に達し、更に漕ぎ入ったのが九島の湾の入り口であった。
ここでふと、主なくして漂う二艘の兵船を発見した。さては舟を捨てて陸に潜んだと見ゆるぞと、舟を岸に寄せたのが、この堂崎の突端であった。
吉武は部下を三手に分けて捜索したが、その形跡を知ること叶わず、探しあぐんで御堂に引揚げ昼食の箸をとった。その時、討手の一人がふと見上げし観音堂の節穴からのぞく紅の布に目をとめ、櫂の石突で天井板を突き上げ調べるといとも気高き童子を中に五人の官女がこれをかこんでいた。「これぞ正しく平家の公達、これを守護し耒った武士がなくてはかなうまじ。」と、責めたてたが、一同既に覚悟を定めたらしく一語の答えもなし、はてに討手のモノタロウの怒りを買い、前庭に引き据えられたが、この時、一際目立つ麗しい一人の官女は、「無礼者」との一声、懐剣をもって斬りかかった。暫しの間、討手との間に戦いががくも返されたが、若き女の細腕、所詮かなうべくもなく、その場に切り例かされてしまった。今、観音堂に向かって右一段下がる池の傍にささやかな祠がある。村人呼んで袖様。又は小袖姫様という。これぞ官女を葬ったところ、祠の中に一葉の鏡が納められをみ魂としてまつられてきた。
残る官女に恐怖におののき生きた心地もなき折から、討手の武士の一人馳せ帰って、向いの島(小高島)に人の隠れ潜む気配ありという。これこそ平家の落武者に相違いなし。これをおびき出すため、ここに残った女共を渚の岩上に引き出して殺害せよ、と叫ぶ。
吉武これを止めんとすれども、血気にはやる関東の荒武者、今堂崎鼻の突端、小高島に相対する波打ち際の大岩にて、次々と官女を斬った。断末魔の叫びを目前にきいてたまりかねて躍り出た武者数人、無念の涙にむせびつつ、刀を口に抜手をきって突端の岩をめがけて泳いでくるのであった。吉武屹っと海面を見渡せば、真っ先に近づく武士こそ夢にも忘れかねる幸兼ではないか。突如として吉武の口からほとばしり出た大音声、「やあ、あの先頭の武士こそ、わが君より密かに助命のご沙汰ありし、山名三郎幸兼殿ぞ。必ず矢を向けるでないぞ。」とその声のまだ消えたやらぬ間に、誰が射たか、一筋の矢は幸兼の急所を貫いていた。屋島、壇の浦以来探し求め、その危急を救って武士の意気地を果そうとして吉武の願いは、はかなくも消し失せてしまったのである。
吉武は涙ながらに、「かくなる上は何をもっておめおめとわが武門に栄えよう。せめて我が身はこの地に留まって、討死した諸人の霊を弔いたい。」と発心し、部下を引揚げさせて公達、官女の墓標を建て、己れ独り、御堂に住まい、海士の焼く藻塩の夕煙、尾上の峯に鳴く鹿の声、さては渚に寄せる波の音に、人の世の無常を観じつつ朝夕絶えざる念仏の三昧境に在ること幾星霜、遂にこの地に往生をとげたという。その間吉武の手によって刻まれたいう木像一基、今観音堂に合祀せられたいう。像は甲冑に身を固めた尺余の武者立像で、これは吉武が幸兼になぞられえて刻んだものであろうと信じられている。
今、この堂崎観音にのこる御堂を守り、これを蔽󠄀う年老いた樹木の梢に吹く潮風の音に遠き寿永の昔をしのびつつ、この筆を止める。
数年前に来た時は無かった観音様が祀られてる

鐘も新しくなってると言うか前はなかったような気がする?
有ったのかな?

もともとそんなに人が行くとこじゃないですし風強い夕方好き好んで行く物好きはいないでしょう


よく覚えてないんだけどこのお墓がそうだったような気がします

突先には灯台があります


この観音様もなかった 新しいものです

すぐ目の前が九島 ここが一番近い場所かな
前に見える島に隠れてたとされる小高島

対岸から九島のおじいちゃん撮ってますね


そろそろ時間になったので海岸に降りて夕陽撮る準備します

いい感じだったのですがこの下に雲あります
夕陽撮る時何時も騙されて海面近くの雲
太陽が落ちてくるまで見えません

ガッツリと雲に邪魔されてお終いです



23日
昨日の堂崎景色が今一つなのでこの日は小浜に移動
中央の島と右の島の間に落とします

皆さん密を避けて海に来てるのかな
アオサギが狙っているのは釣り人がくれる小魚
小物が釣れるとわざと堤防に残してくれるんです

トンビも上空で待機

直ぐ上で待機してます


前日同様風が強くてレンズが揺れる

この後大失敗してしまった(泣)

この時丁度LINEがきて誰かなって数秒目を離してしまい前を見たら太陽降りてしまった
慌ててズームしてピント合わそうとしたけど間に合わなかった

どうせならないと思ってるからそう焦ってはなかったけど海面反射が出てしまった
やばいダルマになる
と思った時はもう手遅れ

ピントあってない
何時ものカメラならすぐ合わせることできるのだけこの日はサブのカメラしか持ってなかったから
ちょっと暗いとピントが合わせにくい この間2~3秒シャッター切る事さえできなかった
一番肝心なくっつくとこも撮れない最悪のパターン

悔しい
せっかくなったのにこの失態
最悪 悪夢だ~








最悪なダルマさんだけど仕方ないのでアップしました
後1日ぐらい気温が低そうなので後日に期待です