脳のミステリー

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誰がかぜを見たでしょう

2009-03-05 19:44:30 | Weblog
かぜ・・・
誰が風を見たでしょう
 わたしもあなたも見やしない
 けれど木の葉を震わせて風は通り抜けていく

二週間も寝ていると色々な事を考えるものである。
「かぜ」って何だろう?
一言では言い表せない「かぜ」に私は興味を持った。

初めの一週間は考えるどころではなかった。
豪兄のコートニーが 夢枕に立った時はさすがにギョッとした。
多分 今年のビクトリア州の大山火事が歴史に残るほど凄いものだったと聞いたからだろう。多くの犠牲者を出したにも関わらず私の豪家族から一人の被災人も出さなかったのはきっと天国の家族が見守ってくれたからだろうと思わざるをえない。

だが、豪州の大火災が鎮まるや否や、私の体内で大人災が起き始めていた。「かぜ」らしい「かぜ」を私はひいた記憶がない。子供の頃は扁桃腺の高熱がひくと「かぜ」は出る幕もない内に引っ込んでいた。咳だけが居残って私を苦しめた。エヘン虫は30年近くも私を悩ませた憎い奴だった。ところが、子供を産んだ後、私の体に何かしらの変化があったとみえ、扁桃腺炎もエヘン虫も全く出てくる事がなくなっていた。

還暦前(早過ぎる!)の脳卒中で常用するようになったエースコールという降圧剤は一日一回朝だけ服用するのだが、副作用には咳と書き記してある。だが、この副作用もなく、私は痺疼痛という最悪の後遺症を受容しても、快適に過ごして来ていた。ところが「今度のかぜ」は最悪で「薬の副作用」としては何も残さずに立ち去ったのに静かに大人しく長年寝ていた「エヘン虫」を持ち帰るのを忘れて行ってしまった。
「忘れ物! 忘れ物!」って叫んだのに・・・
この咳絡みのエヘン虫は 確かに「かぜ」のそれではない。何十年も前に悩んでいたあのエヘン虫なのである。
人間の体の変化とは実に興味深いものである。

「風立ちぬ」・・・若い人は松田聖子ちゃんの歌を思い出すだろう。
♪風立ちぬ 今は秋. 今日から私は心の旅人. 涙顔見せたくなくて 性格は明るいはずよ ...  風立ちぬ 今は秋 風立ちぬ 今は秋.
 帰りたい帰れないあなたの胸に 帰りたい帰れないあなたの胸に.
 風立ちぬ 今は秋 風立ちぬ 今は秋. 今日から私は心の旅人
私だって口ずさむ事の出来る名曲である。

でも「風立ちぬ」と言えば、やっぱり堀辰夫の名作が思い出される。
「風立ちぬ、いざ生きめやも」とバレリーの詩句の引用をもって始め、リルケの『鎮魂歌(レクイエム)』をエピローグに置くこの小説は、高原療養所とそこから山一つ隔てた村を舞台に、婚約者の病床に寄り添い、やがて彼女に先だたれていく「私」が死にさらされた自分たちの生の意味と幸福の証を模索し、ついにそれらについての確信を得ていく過程を描いた小説である。。婚約者の死という「私」の痛切な体験を、詩情溢れる言葉の中で昇華し永遠の生の思想を訴えかけてくるという最高の堀文学である。

「かぜ」という言葉「先輩かぜ」とか言うように他の名詞に付いて、そぶり、ようす、わざとらしい態度などの意を表す。
また、「風が吹けば桶屋が儲かる」なんて事も言う。
これは、意外なところに影響が出る事とか、あてにならない期待をする事の例えに使われるのである。風が吹くと土ぼこりがたって目に入り盲人が増える。盲人は三味線で生計を立てようとするから、三味線の胴を張る猫の皮の需要が増える。猫が減ると鼠が増え、鼠が桶をかじるから桶屋が儲かって喜ぶという事である。何とも遠回しにだが理解できる話で、実に面白い。

とにかく60年に一度の「かぜ」をひいたのだが、これほど色々考える時間を与えてくれた事に私は感謝する。
「風邪」つまり、鼻・喉・気管などのカタル性炎症で、くしゃみ・鼻水・鼻詰まり・喉の痛み・咳・痰・発熱・頭痛・倦怠感などの症状がみられのが「かぜ症候群」だと言われているが、今回私が経験したのは くしゃみ・鼻水・咳・倦怠感であった。結論から言うと「倦怠感」が何よりも最悪だったというのが正直な感想である。

二週間も寝ていると色々な事を考えるものである。
「かぜ」って何だろう?
一言では言い表せない「かぜ」に私は興味を持った。

初めの一週間は考えるどころではなかった。
豪兄のコートニーが 夢枕に立った時はさすがにギョッとした。
多分 今年のビクトリア州の大山火事が歴史に残るほど凄いものだったと聞いたからだろう。多くの犠牲者を出したにも関わらず私の豪家族から一人の被災人も出さなかったのはきっと天国の家族が見守ってくれたからだろうと思わざるをえない。

だが、豪州の大火災が鎮まるや否や、私の体内で大人災が起き始めていた。「かぜ」らしい「かぜ」を私はひいた記憶がない。子供の頃は扁桃腺の高熱がひくと「かぜ」は出る幕もない内に引っ込んでいた。咳だけが居残って私を苦しめた。エヘン虫は30年近くも私を悩ませた憎い奴だった。ところが、子供を産んだ後、私の体に何かしらの変化があったとみえ、扁桃腺炎もエヘン虫も全く出てくる事がなくなっていた。

還暦前(早過ぎる!)の脳卒中で常用するようになったエースコールという降圧剤は一日一回朝だけ服用するのだが、副作用には咳と書き記してある。だが、この副作用もなく、私は痺疼痛という最悪の後遺症を受容しても、快適に過ごして来ていた。ところが「今度のかぜ」は最悪で「薬の副作用」としては何も残さずに立ち去ったのに静かに大人しく長年寝ていた「エヘン虫」を持ち帰るのを忘れて行ってしまった。
「忘れ物! 忘れ物!」って叫んだのに・・・
この咳絡みのエヘン虫は 確かに「かぜ」のそれではない。何十年も前に悩んでいたあのエヘン虫なのである。
人間の体の変化とは実に興味深いものである。

「風立ちぬ」・・・若い人は松田聖子ちゃんの歌を思い出すだろう。
♪風立ちぬ 今は秋. 今日から私は心の旅人. 涙顔見せたくなくて 性格は明るいはずよ ...  風立ちぬ 今は秋 風立ちぬ 今は秋.
 帰りたい帰れないあなたの胸に 帰りたい帰れないあなたの胸に.
 風立ちぬ 今は秋 風立ちぬ 今は秋. 今日から私は心の旅人
私だって口ずさむ事の出来る名曲である。

でも「風立ちぬ」と言えば、やっぱり堀辰夫の名作が思い出される。
「風立ちぬ、いざ生きめやも」とバレリーの詩句の引用をもって始め、リルケの『鎮魂歌(レクイエム)』をエピローグに置くこの小説は、高原療養所とそこから山一つ隔てた村を舞台に、婚約者の病床に寄り添い、やがて彼女に先だたれていく「私」が死にさらされた自分たちの生の意味と幸福の証を模索し、ついにそれらについての確信を得ていく過程を描いた小説である。。婚約者の死という「私」の痛切な体験を、詩情溢れる言葉の中で昇華し永遠の生の思想を訴えかけてくるという最高の堀文学である。

「かぜ」という言葉「先輩かぜ」とか言うように他の名詞に付いて、そぶり、ようす、わざとらしい態度などの意を表す。
また、「風が吹けば桶屋が儲かる」なんて事も言う。
これは、意外なところに影響が出る事とか、あてにならない期待をする事の例えに使われるのである。風が吹くと土ぼこりがたって目に入り盲人が増える。盲人は三味線で生計を立てようとするから、三味線の胴を張る猫の皮の需要が増える。猫が減ると鼠が増え、鼠が桶をかじるから桶屋が儲かって喜ぶという事である。何とも遠回しにだが理解できる話で、実に面白い。

とにかく60年に一度の「かぜ」をひいたのだが、これほど色々考える時間を与えてくれた事に私は感謝する。
「風邪」つまり、鼻・喉・気管などのカタル性炎症で、くしゃみ・鼻水・鼻詰まり・喉の痛み・咳・痰・発熱・頭痛・倦怠感などの症状がみられのが「かぜ症候群」だと言われているが、今回私が経験したのは くしゃみ・鼻水・咳・倦怠感であった。結論から言うと「倦怠感」が何よりも最悪だったというのが正直な感想である。

誰が風邪を見たでしょう
 わたしもあなたも見やしない
 けれど私の体を震わせて風邪は通り抜けていく