脳のミステリー

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93.脳のミステリー 万歳!

2006-10-24 06:53:16 | Weblog
 goo で104件中一番最初に見つかって、yahoo では1,100,000件中の一番前から検索出来るようになってるよ! 嬉しい! みんな、たくさんの人が私のブログを読んで日々の糧にして欲しい。音楽は心の糧というけど、聞いて!前田先生!マイ・ブログも障害者にとっては心の糧になるよね!(前田先生は音楽セラピーの療法士で私が大好きな女性の一人)

92.教えてあげる、障害者への正しい接し方!

2006-10-24 06:17:42 | Weblog
哲学者ルソー曰く
―我々はいわば二回この世に生まれる。一回目は存在する為に、二回目は生きる為に―
中途障害者の私曰く
―私はこの世に二回生まれた。一回目は人間一般社会に参加する為に、二回目は障害の立場から一般社会を垣間見る為に―

 死に損ないの私にはそれなりの必要性があったからこそ、三途の川を渡らずに現世に戻って来たのである。現在の私ならきっと貪欲に来世を覗き見て来ただろうに、未来の何も見ず、下界に舞い下りてて来てしまった。私の必要性、それは障害者という立場に立って客観的な眼で一般社会を見て、助言する事である。
 一般社会で、所謂、健常者が私達障害者にかける言葉は決まって「大丈夫ですか?」である。簡単な英語で言えばAre you alright? だが、what do you mean? I’m alright! と返されたら、どうする? 訊ねられてもいない、頼まれてもいないのに「余計なお世話だった」とあなたは思って「どうしよう!」と思うかも知れない。そう、一般社会から余計なお世話は何度も受けても、まさかの時のヘルプは滅多に受けないのが事実である。これは障害者仲間が異口同音に率直な意見として常日頃、思って話している事である。私達が欲しい言葉は「お手伝いしましょうか?」May I help you? なのだ。だが、この言葉を発する限り、身も心も充分に使える人でなければならない。健常者は障害者に声をかける前に自分の体に自信があって、心に余裕がなければ、気持ちだけでは安易には言動や行動に移すべきではない、と言いたい。障害者のヘルプって、実は大変なのよ!
 自らを主人公に語ってみよう。私は外出に必ず持ち出すのが、自慢の朱漆の杖ではなく、簡単操作の電動車椅子なのである。傍から見ているといとも簡単にハンドルを握る私を見ると、声をかけたくなるらしい。長年、決して軽くはないワーゲンのハンドルを握ってきた姉が「ワァー怖い! アレーッ難しい!」と騒いだくらいだから、左指先でチョイチョイと操作するのは・・・ まして周りの状況を把握しながらの走行は気も使うのである。
 安易に声をかけるものではない。障害者が「すみません!」と言って初めて「何をしましょうか?」と言って貰いたい。障害者は、ホント、健常者以上に「個」を大切にして生きてきているから! どうして分かるのかって? だって、ついこの前まで私、健常者で街を括弧していたんだもの。私なりに両者が分かるってわけ。
 とにかく、障害者の不便、障害者の痛みや悩みはホントに夫々! よく出会う「大きなお世話」や「余計なお世話」を指摘してあげなきゃね! 善意が悪意とまでいかなくとも迷惑になる事を私の場合、と断った上で述べてみる。
 私の家とリハビリ病院の間には結構、魔の横断がある。赤信号に注意だけではなく、道路の傾きと視覚障害者のヘルプになっているあの黄色い粒々が一緒に出現すると、神経をさかなでするという訳である。おまけに親切なガードレールが更に邪魔をするのだ。
 私の愛車はスイスイと気持ちよく走る。目前の信号が黄色に変わる。すかさず、ハンドルから手を放し(ストップにはハンドルを手放す)急いでストッパーをかける。通常の道での停車はハンドルを手放すだけでいいが、斜面ではストッパーが必要になる。更に例の黄色い帯に粒は最悪の条件になる訳だ。そこでお節介な人が登場すると、私は内心大慌てする。そんな時、背後からどんな人かも見えないのに「チョット動かしましょうね」とか何とか言って車椅子の後ろハンドルを持って少しあげて真っ直ぐにしている様子が想像で出来る。その瞬間、私の右半身では恐ろしい出来事が起こっているのに、私しか分からない。私は声も出ず、内々、例の小人と大格闘する事になる。それによって信号を逃がす事もある。お節介さんはトットと先に言ってしまえばいいのに、自分も渡らずに私の心配を勝手にする。「早く行ってよ! 私に構わないでよ!」と言いたいのは山々だけど、そうもいかず、心にもない事を言おうとする。
― ありがとう。でも、触らないで! 困るから ―
お節介さんは「大丈夫?」を連発する。あなたがいるから大丈夫じゃないの、とも言えず、私はその人の存在を極力無視しようと努力する。やっと平常心に戻って私は話し出す。
「ありがとう。でも、背後からはそっと触れられただけでも右半身に異常な痺れが起きるんです」
「あら、ごめんなさい」
やっとお節介さんからは私という障害者が期待していた言葉が貰えるという訳だ。
 信じられないだろうがホントの話で、障害者同士は「分かる、分かる」と多くの人が頷く。障害者との正しい付き合い方は、障害者本人から学ぶべきだと思うし、それがまた誰にでも通用する接し方ではないという事も健常者には浸透させて貰い、真のノーマライゼーションを根付かせて欲しい。先ず、障害者と健常者との間に存在するバリアフリーを一般社会で徹底させれば、自然にノーマライゼーションが浸透されていく、と私は思う。