Mooの雑記帳

日々の感想などを書いていきます。

9月20日(火) 現世の問題

2022-09-20 22:52:22 | 日記

昨夜から今朝にかけて、相当雨が降ったようでしたが、朝にはその気配はほとんどなし。午後には畑に出かけて、3時間ほどこれまでの続き(草取りと耕耘)の作業をしました。土が湿っているので、大きな草も割と取りやすいので結構はかどりました。それでも、まだ予定の半分くらい。あと1日は同じような作業をしなければなりません。
草取りが終われば、肥料を撒いて耕運機で耕し、それから畝を作ってマルチがけ。イチゴの苗を早く定植したいので、ここ2、3日はこの作業で追われそうです。

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MNEMOさんが、私の記事について「刺激を受けて」として、一文を載せていらっしゃいました。嬉しいですね。
私はMNEMOさんの考え方は好きですよ。豊かな教養に裏打ちされて、世界をとりまくあらゆる事象に思索を巡らしていらっしゃる姿は、魅力的です。
それはともかく、MNEMOさんの一文に私も「刺激を受けて」、もう少し書いてみようと思います。

MNEMOさんからは、私を唯物論者であり、共産党支持者だと紹介していただいています。全くその通りなので、むしろ有り難いと思いつつ、また自分でもそう言いながら、「唯物」という、何とも即物的で翻訳的な言い方はあまり好きじゃないんですね。唯物論という用語自体がその概念を正確に表してはいないと思っているのですが、今のところは仕方がありませんかね。

人知を超えた”神秘的”な光景や不可思議な現象はいくらでもあり得えます。宇宙の無辺の広がりも、幼い頃から私の心を捉えて放さなかったものの1つです。そのために理系をえらび、一時は本気で宇宙物理を志したことすらあるのです。

また、一方で、朝の北アルプスの美しさや大空の広がり、花々の可憐さを、掛け値無しに素敵だと思う気持ちも人並みに持っています。
人間の価値を認め、人々の繋がりを大切にし、力を合わせて生きることも宗教的信条としてではなく、70年以上生きてきた経験から素直にそう思う。そうした生き方の問題でも、その考え方を私に駆動させるのは、人間として求められる社会的倫理感や道徳観のみです(そう言いつつも、かなり危ういものですけど)。

”私にとって”そうした人間の意識や認識を説明するために万物の創造主は必要ないだけの話です。それらはそれ自体としてあるのであって、イヌやネコにとって外界は外界であるように、人間にとっても同様だと考えているだけです。私の基本的立場はただそれだけですから、改めてそれを「唯物論」というには隔たりがありすぎますね。

地球上に住む多くの民族の中では、宗教が人々の生きる糧となり、力となっていることは事実であり、エリザベス女王の国葬での色濃い宗教色は、まさにその証左でしょう。人々は何の疑問もなくそれを受け入れています。日本の葬式仏教とは雲泥の差です。
私だって「宗教的心情」が全くないわけではありません。今は亡き父母の遺影の前では頭を垂れて手を合わせますものね。孫たちには「ばあちゃんは、天国から見ているのだからね」と脅してさえいるのです。ハルちゃん、天国から戻ってきてくれとさえ思う。

しかし、なのです。イランでのシーア派とスンニ派というように、政治勢力が宗教で分けられ対立することもごく普通ですから、個人のものの見方としての宗教のレベルと集団としての宗派のあり方とは区別して見ないと混乱が生じます。

この点での私の基本的立場は、第二次大戦下でナチスとたたかったヨーロッパの人々の「神を信じるものも信じないものも」の統一戦線の立場。”現世の問題”では手を結ぶことができるし、ともに闘うことにおいてはどんな障害もないというものです。たとえ民族が異なろうと、宗教が異なろうと、宗教を信じまいと、人間としては同等であり同等の権利を持っている。逆に、現世において、思想・信条による差別や偏見については、それをなくするために断固として闘う必要があると思っています。

人間の生き方を考える際に、さまざまな宗教やそれに近い精神的営みから、学ぶべきことは沢山あるはずです。
その学びを血肉にできるかどうかは、自然や社会についての科学的知識と批判的精神にかかっているのではないか。現在の私に言えることは大体そんなところです。
そう言う自分の言葉に近付けるにはまだまだ程遠いものがありますが・・・。

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以下は余談です。

日本共産党も、綱領と規約を認めて活動することを是とするなら、たとえどんな宗教的信条を持っていたとしても党員として認めているのです。日本共産党は、現世での問題について認識が一致さえすれば、一緒に活動できる。私がこの党を支持する1つの理由でもあります。

その昔、このブログでも書いたことがあった気がしていますが、かつてお付き合いしていたある党員(お寺の住職)に、軽い気持ちで「あなたは東か西か?」と聞いたことがありました。富山は浄土真宗王国で本山の本願寺にも西と東があるからです。するとその党員は「オレは左本願寺だ」とかわしていたことを思い出します。仏教徒党員は何人もいましたね。

「あなたは神を信じますか」「キリスト教について学びませんか」などと、ときどき布教に来るグループの皆さんには、「私が神です。うちにはカミさんもいるから間に合っている」と煙に巻いてお引き取り願っているのですけど、別に差別しようとか、論破しようとしているわけではなく、時間がもったいないと思ってそう言っているだけです。
「安保法制についてどう思うか。一緒に反対の行動をしないか」と私から逆に聞いても、怪訝な顔をされるだけなので、当のグループのみなさんは、さぞ、変なヤツだと思ったことでしょうね。