台風接近で、夕方からかなり強い風が吹くようになってきました。九州、四国では相当な被害が出ているようで、心配です。
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何事も一知半解では先に進めない、とカッコよく言ってみても、事はそんなに簡単ではありません。
私の学生時代に受け付けなかった「統一原理」なるものも、原理ではなく、そもそもの入口、つまりそれを信じ実践しようとしていた学生たちの立ち居振る舞いが、とうてい受け容れられるものではなかったという一事に拠っています。
それからも、「統一原理」について知る機会も、もともとその気もなく、今日まで来てしまいました。しかし、安倍射殺事件のおおもとに、これを教義とするカルト団体の存在があり、自民党の幹部だけではなく組織ごと、この集団と抜き差しならない深い関係をもっていることが明らかになるに及んで、この「統一原理」なるものに、いささか興味を覚えるに至りました。
霊感商法や高額の寄付といった外面の行為もさることながら、信者を惹きつける教義にも目を向けなければ、今日の問題を考える土台はつくれない・・とまあ、考えたわけです。
彼ら(自民党など)は、果たしてこの教義を理解した上で、関係を持とうとしたのか、それとも単なる家族観や勝共、選挙といった利害のみで利用しようとしたのか。
前置きが長くなりましたが、要するに、旧統一協会(世界基督教統一心霊協会)のバイブルとされる「原理講論」を入手して、いま読み始めているところです。ところが、メチャクチャ細かい字で難解な宗教用語が詰め込まれているので、キリスト教の「聖書」に関する知識がなければ、その意味もわからないシロモノ。
ただ、単にそれだけでは日本の若者たちの信を得ることは出来ないでしょうから、いろいろと現代のさまざまな事象や科学の知識などもちりばめているので、それなりに読み進めることはできます。
まず、原理講論のはじめには、序文にあたる「総序」が置かれています。
書き出しはこうです。入口としては、かなり「魅力的」です。
人間は、何人といえども、不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている。・・・それでは、幸福はいかにしたら得られるであろうか。人間はだれでも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。・・・
大抵の人なら、矛盾だらけのこの世において、複雑な心情を抱いていることは否定できないことです。貧困から抜け出し、少しでも家族を楽にさせたい。納得出来る仕事を見つけたいが、あるのは非正規の人間扱いされない仕事ばかり・・・。
そして、講論は、矛盾に満ちた人間の心性を次のように分析します。
ここにおいて、我々は、善の欲望を成就しようとする本性の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を志向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。存在するものが、いかなるものであっても、それ自体の内部に矛盾性を持つようになれば、破壊されざるを得ない。したがって、このような矛盾性をもつようになった人間は、正に破滅状態に陥っているということができる。
・・・
このような矛盾性は、後天的に生じたものだと見なければなるまい。人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶのである。
そうなのか・・・とつい相づちを打ちたくなるような書き出しですね。ところが、その後、このような結論は、もはや誰も反駁する余地もないが、この善と悪とがそもそも何であるかを知らないままでいるとして、いろいろ語った末に、次の結論に到達するのです。
真理の目的は善を成就するところにあり、そしてまた、善の本体は神であられるがゆえに、この真理によって到達する世界は、あくまでも神を父母として侍り、人々がお互いに兄弟愛に堅く結ばれて生きる、そのような世界でなければならないのである。
神の救いの摂理が完全になされるためには、この新しい真理は今まで民主主義社会において主唱されてきた唯心論を新しい次元にまで昇華させ、唯物論を吸収することによって、全人類を新しい世界に導きうるものでなければならない。・・・
この真理は、あくまでも神の啓示をもって、我々の前に現れなければならないのである。それゆえ、神は、既にこの地上に、このような人生と宇宙の根本問題を解決されるために、一人のお方を遣わし給うたのである。そのお方こそ、すなわち文鮮明先生である。
・・・先生は、単身、霊界と肉界の両界にわたる億万のサタンと戦い、勝利されたのである。そうして、イエスをはじめ、楽園の多くの聖賢たちと自由に接触し、ひそかに神と霊交なさることによって、天倫の秘密を明らかにされたのである。
こうした教義は、どんな宗教であれ持っているのでしょうが、聖書をもとにしてあれこれ「分析」している割に、最後に到達する結論は、極めて非論理的であり、荒唐無稽であり、宗教というには余りに卑俗なものです。
ただ、難解な聖書の引用などを使いながら、人間がいかに堕落したか、それからの救いをどのように求めるのかを理屈っぽく説いており、それに洗脳されてしまえば、結論はどんなものでも受け入れざるを得ないのでしょう。
イエスが霊としてではなく肉体を持った人間として再臨されるというのが、1つの教義なのですが、講論の終わり頃には、「イエスはどこに再臨されるか」という節があり、そこでは、肉体をもって再臨されるのであれば「ある選ばれた民族の内に誕生されるはずである」として、それはどこなのかを解明していくのです。もちろんその民族が属する国とは「韓国」だと結論づけるのですが、この理由が実に生々しくて面白い。
東方に位置する国が何故日本ではないのかという下りでは、過去の日本の植民地支配の実態を告発しており、その限りでは全く正しいのですが、「サタンの第一の本性が侵略性」という立場からは、日本はサタンの国であり、韓国は苦難の歴史を歩んだ選ばれた国ということになるのです。
教祖文鮮明氏は、キリスト教の教義については相当な博識であり、至る所で聖書を引きながら自らの考えを対置していくのですが、この辺りは知識のない私にはとてもついてはいけないところ。しかし、「唯神論に唯物論を吸収する」だとか、「宗教と科学を統一する」だとか、「世界を創造神こそ科学の根本」だと言われると「何のこっちゃ」と、彼の頭の中を疑ってしまう。
ただ、現実世界の問題として世界史の流れを宗教的に「解明」していて、例えばスターリンはサタンの再臨型であり、共産主義を壊滅する第三次世界大戦は避けられない、ただし、武器ではなく、新しい真理による「すべての主権を神の前に取り戻して天宙主義の理想世界を実現する」ことによって・・・と、政治の世界に話が広がってくるとなるとやっかいです。
共産をサタンの側と位置づけているあたり、反共意識は極めて強烈で、一般的な宗教とは相当に異なる。この点こそ、「勝共こそキリスト者の聖使命なり」(久保木修己勝共連合初代会長)として日本で受け容れる接点となっているのでしょう。
信ずる信じないは内心の自由に属する問題ですから、信教の自由は完全に守られなければなりません。しかし、世俗の問題として政治・経済にその信仰を持ち込んだり、反社会的な行為に及んで他人に害を与えたりするようになれば、それは次元の異なる問題となるわけで、それ故日本では「政教分離」を厳しく求めているのです。それは戦前日本の苦い教訓でもありました。
原理講論について、ちょっと長々と引用したりしましたが、結論から言うと、わざわざ手にとって読むほどの価値もない駄文だというのが私の最終結論です。