Mooの雑記帳

日々の感想などを書いていきます。

7月30日 日本における「極左」思想 (その4 終わり)

2024-07-30 10:40:38 | 日記

東京新聞7月16日付けで、よくテレビに登場する小泉悠・東京大学先端科学技術研究センター准教授が面白いことを書いていた。

「交流サイト(SNS)の浸透を背景に、戦争は、人々の考え方の主体となる「脳」を巡る争い『「認知戦』に発展しつつある」という記事です。

人は簡単には洗脳されない。例えば、日本人の頭の中が、ロシアや中国の思い通りに何かを信じ込まされてしまう、というのは難しい。ただ、交流サイト(SNS)は人がもともと持っている偏見や思想を先鋭化させることはできる。右寄りの人はより右に、左寄りの人はより左に。差別的な人はより差別的に。アナキスト的な人はよりアナキスト的に。それぞれの世界観を持つ人たちに、あなたが言っている通りですと、その証拠とされるものをたくさん突きつければいい。考えを先鋭化させるのは簡単。そうなると、社会の中で対話ができなくなってしまう。認知領域戦の一番のキモは、話を通じなくさせることだと思う。

小泉氏は、その具体例をいろいろ挙げながら、それに飲み込まれないようにするにはどうすべきかについても最後に言及しています。

思い返せば、私が大学生になった頃も、国際的なレベルという意味ではないけれど、学生の意識をどの勢力がどのように取り込むかをめぐって、熾烈な「認知戦」が展開されていたのだと思います。
ある学生は民青に、ある学生は過激派のセクトに、またある学生は統一協会にというように。その舞台は、それぞれの団体が用意するサークルであったり研究会をおこなう団体であったりと多様でした。
私もまた、教育実践サークルに加入していなければ、全く違った考え方や行動に参加していたかもしれません。それほどに、人間関係は人を変えてしまいます。
小泉氏が言うとおり、「考えを先鋭化させるのは簡単」なのです。
私がそのことを痛切に感じ取ったのは、同じ学部の学生が統一教会に入り、アッという間に人間そのものが変わってしまったのを間に当たりにしたときのことでした。これは、極左ではなく極右の例。

***

さて、ここからが本論です。
今でもよく話題になる「全共闘」は、始めから極端な行動や思考で彩られたわけではありません。

1960年代の大学では、60年安保を境に破壊された学生自治会を再建しようとする動きが活発になりました。その主流をなしたのが、いわゆる代々木系(共産党系)と言われる全学連でした。しかし一方で、安保闘争で分裂したとはいえ、各大学で影響力を残してきた各セクトもまた野合して全学連(後の三派全学連)を名乗り全国的には複雑な様相を呈することになります。

遡って、この各セクトの源流をたどれば、1957年の「トロツキスト連盟」(直後に革命的共産主義者同盟=革共同と改称)にあることは先に触れたとおりです。その中心人物であった黒田寛一は次のように述べていました。(「現代トロツキズム批判」榊利夫、新日本新書)

「スターリン批判」をいちはやく究明し、弾劾し、それを克服するためにたたかってきたのが、スターリンに虐殺されたボリシェビキ、レオン・トロツキーと、かれを中心とする左翼反対派の国際組織であった」(黒田寛一『スターリン主義批判の基礎』および『現代革命と平和共存』)
「われわれ若い世代は、いわゆるスターリン主義にたいする批判をやるにあたって、サルトルへの共感から出発している」(黒田寛一『弁証法研究会』機関誌『探究』57年1月)

1968年には、これも先に紹介した日本共産党東大細胞などで発生した綱領草案への異論をきっかけに共産党から脱落した学生らが58年12月に「共産主義者同盟」(ブント=BUNT、その学生組織が社会主義学生同盟:社学同)を結成、黒田寛一率いる革共同と併存することになります。
安保闘争の中で、革共同は全国委員会派(学生組織として「マル学同」)と関西派に分裂。
60年安保闘争を経て、その総括をめぐりブントは四分五裂、一部が革共同全国委員会派になだれ込むという一幕もありました。

さらに、1962年には、革共同全国委員会派は「中核派」と「革マル派」に分裂。
1964年には東京社学同が、マル戦派とML派に分裂。その年、社学同、社青同、中核派が三派連合を結成。直後に社青同の中に解放派が結成されたため、社青同解放派・ 社学同・中核派にML派などを加えて、いわゆる三派全学連が結成されます。
以後、さらに複雑な離合集散が繰り返され、こうした各セクトが土台となって、60年代後半の学園闘争が拡大することになります。

60年代後半の「全共闘」はこうした革共同(トロツキスト連盟)から分裂・派生したグループと、結果的に反帝・反スタ、反共産党で一致をして野合していくブンドなどのグループ、どこにも属さないとしつつもこれらのグループと行動をともにするノンセクト・ラジカルなど雑多な寄せ集めとして成立し、行動の過激さを競うようになっていくのです。

その行動は、学生自治会に結集し要求で団結するという民主的な手続きによる運営を「ポツダム自治会」と見做して拒否、「主体的」に結集する学生のみによる「直接行動」を手段として学生自治会を破壊、「自主管理」を呼号しバリケード封鎖、暴力的対決へとなだれ込んで行くアナーキーなスタイルを特徴としており、挫折は始めから明白でした。戦術をめぐって意見の相違が生じることは必然であり、四分五裂はそれらの運動の開始時点から約束されていたといえます。

これらの過激な行動は、ある意味で日本に特異な「日本型トロツキズム」を底流としていることから、それ故、暴力的な妄動を特徴とする行動だが、それは学生達の正義感にもとづくものであるとして好意的に描くことがいかに誤りであるか、その後の歴史が明瞭に示しています。

振り返って、こうした過激な「思想と行動」(あくまで極左暴力集団の中核部分のそれを指す)を振り返って考えてみると、結局はマルクスはおろかトロツキーとさえも縁もゆかりもない独りよがりの「小児病」であって、社会への主体的な働きかけになるどころか、権力の手のひらで泳がされ都合のいいように利用されてきたものであると総括できます。

***

「全共闘」運動に関わった有志が刊行した「全共闘白書」が1994年に新潮社から発行されました。全共闘という、実は定義すら定まっていない=定めることができない雑多な混合物をそれぞれが都合よく切り取って、懐かしむ体裁の本にしかみえません。
ほとんどが運動に関わった人物へのアンケート結果を報告したものですが、一部はかつての運動の振り返り・総括という体裁の座談会で構成されており、それなりに興味をひきます。
この白書の刊行よびかけ文に、おもしろい表現がありました。

それぞれが、自らでさえ持て余しぎみの情熱をぶつけあいながら、世の中の枠組みを変えようとした私たちの「思春期」から、二十余年の星霜が流れました。以来、私たちの多くは髪を短くして「企業戦士」に、あるいは社会的活動から召喚して「教育ママ」になり、ひたすら黙り続けることをもって、私たちの”意思表示”としてきました。

「ひたすら黙り続けることをもって、私たちの”意思表示”とした」と平気で書ける感覚こそ彼らの専売特許なのでしょうが、私には全く理解できません。彼らにとっては「挫折」を挫折と認められず心のバランスをとる最大限の表現だったのでしょう。
私が属していた大学の多くの学生たちが、私自身も含めて、その後の社会的活動においてそうした沈黙とは無縁の活発な活動を展開していたことは全く対照的であったのですから。

アンケート項目は多岐にわたっており、1つ1つを詳しく見ることは至難の業ですが、本に収録されているアンケート項目には「運動を離れた理由」という「運動を離れることが自明」であるかのような設問もあります。その回答ではかなり多くが「内ゲバ」と答えていました。
この書籍では、私が問題とした日本における特殊な思想的、運動論的な背景は一切切り捨てられており、全共闘の白書には全くなりえていません。

***

当時から数十年を経た今、大学も若い世代の意識も様変わりしたことは間違いないけれど、世の中の矛盾に目を向ける若者は決して少なくはないはず。きっかけさえあれば、様々な行動に立ち上がる可能性を秘めています。そのときには、新しい運動の考え方やスタイルが生み出されるでしょうが、同時に、過去の運動の経験と教訓を生かすことを忘れてはならないと思うのです。