すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

専門性の罠。

2014-10-02 20:51:29 | ひとりごと
専門家という記号に弱いのは、日本人特有なのだろうか。

私も、やっぱり専門家には弱いところがある。専門家から言われた言葉に違和感を感じても、彼らが打ち込んでくる専門性という名の楔があまりに深くて、その呪縛からなかなか抜け出せなかったこともある。

確かに、専門家には、
その道で経験を積んだから見えていること、その分野を深く掘ったからわかっていることがある。

でも、
だからこそ見えなくなっているものがあるということを、わからなくなっているものがあるということを、専門家も、専門家と接する人も知っておく必要がある。

専門家は、万能ではなく、人間である限り限界があるのだということ。

一つの事象にAを導き出した専門家は、Aに焦点を当てた人。Bを導き出した人はBに関心を向けた人。同じ経験をインプットしても、その人の意識、価値観、性格を通過した時、アウトプットされるものは全く別物になる。

専門性とは、もしかしたら、それほどに曖昧なものをいう。

そのことを自覚する専門家は信用に値するし、そのことを自覚しない専門家は信用できない。

ソクラテスの「無知の知」みたいなものだ。


私が出会った専門家には、たとえばこんな人がいた。

子どもがなかなかできなくて受診した先の、不妊治療の有名医師。

「30代後半で治療するなら、つべこべ言ってる暇はない。うまくいった人は、落ち込まずに辛いとかも言わずに耐えた人だ」

ホルモン療法が辛くてつべこべ言った私に、医師は言い放った。その医師にとって私は妊娠できる可能性が限りなく低い患者になる。

その医師のところで妊娠した人は、恐らく医師が言うとおりに、つべこべ言わない人ばかりだったのだろう。

その後、病院を変えて別の医師に出会った。ゆったり大らかな感じの人で、妊娠できないとされる理由の半分くらい、最初の医師と見解が違った。結局、治療もせずに検査の段階で妊娠した。

私を切り捨てるように扱った有名医師は、私のような、つべこべ言う患者が妊娠できるとは思ってもいないだろう。彼の経験の中に、 私のような患者はいなかったから。私のような患者は、早かれ遅かれ彼を去っただろうから。


こんな心の専門家もいた。
言葉が遅めで落ち付きのなかった未就園児の息子について、相談機関の臨床心理士は投げすてるように言った。

「幼稚園では大勢のお友達がいるんですよ。ちゃんとやれるんですかね。心配です」

夫が、「公園で同じ年くらいの子どもを見てもこんな感じですけどね」と、心理士の話に反論するようなコメントをした後の言葉だった。その日で相談機関に行くのはやめた。

息子は、集団に入ると言葉が急激に伸びて、普通にお行儀よく、普通にやんちゃな幼稚園児になった。入園当初は息子レベルの問題児はクラスに山のようにいて驚いた。そして一年たつと、みんな仲良くめまぐるしい成長を遂げたのだ。

心理士は、問題があるとされる子どもと接するなかで、平均的な普通の2歳の姿がわからなくなっていたのかも知れない。問題を探す目ばかりが肥えて成長への期待に意識が向かなくなったのかもしれない。


医師の言葉でなかったら、臨床心理士の言葉でなかったら、私は、それほどに傷つかなかったかもしれない。

でも、彼らは、不妊治療の専門家、児童心理の専門家だった。彼らの専門性が、私を無駄に追い詰めた。専門性という記号に弱い私が私を追い詰めたっていうこともできる。

相性の悪い二人の専門家に出会ってから、私は専門性というものにあまり信頼を置かなくなった。

専門性をどんな人間が扱っているのか、が大事になった。

自分はその人間に好感が持てるか、その人間を信用できるか。人間を嗅ぎ分ける自分の感覚の方を信じることにした。

人間を信じたからには、その人から導き出された専門性は信じるに値する。そして、それはだいだい間違わなくなった。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿