すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

自分だって「正しい」わけではない。

2015-03-15 10:30:35 | My メソッド
少し量を増やした相談援助の仕事と、今年から引き受けている幼稚園PTA役員でてんやわんやの毎日です。

大変ではあるものの、自分が、そこにエネルギーを注げば注ぐほど、色んなアイデアが浮かびます。

仕事の場合には、利用者の気持ちを最優先する援助のあり方。PTAでは、お母さんたちの負担の少なくする方法。

自分にとっては、もう、「最高のアイデア」って感じで、すぐにでも運用したくなります。

ところが、そのアイデアがすんなり受け入れられることはめったにありません。

前例がない。
責任の所在があいまいになる。
事務手続きが大変。
反対意見を抑えるのが面倒。


変化を嫌い現状を維持しようとする人たちの意見に一蹴されます。

こうしたやりとりが続くと、私の中に無力感や怒りすら沸くのですが、ふと立ち止まって考えてみて、あることに気づきました。

私は、自分の意見が「正しい」と思っているんだな、ということです。自分の意見が正しくて、それに反対する人の意見は「間違っている」と考えているから、無力感や怒りを感じるんだな。

正しい意見に反対する人たちに、「だからダメなんだ」なんて、言いたい気持ちになるんだってことです。


私の意見は、正しいわけではない。

この視点が欠けていました。たとえ、斬新で、寛容で、ニーズを満たして、時代に合わせた意見だとしても、それは「正しい」というわけではありません。少なくとも、反対する人にしたら、ちっとも正しくない。

私の意見は、私が好きな意見であり、私が「これイイ!」と思う意見なのです。賛同する人がたとえ多くても、それは多くの人が好きな意見ということでしかありません。

自分の意見が正しいわけではなく、私が好きな意見だと再定義すると、相手の意見を「間違った」意見として受け取らなくなります。

間違っているものは正したくなりますが、自分の「好き」の反対側にある意見の扱い方には、それなりの配慮が生まれます。

自分の意見を言う時も、「正しい」ではなく、あくまで「好き」な意見でしかないのですから謙虚に提案できるし、反故にされても一々落ち込まずにすみます。

力んで何かを訴えたり、敢行しようとしているとき、そこには自分の「正しさ」へのこだわりがあるのかもしれません。

べき思考は変えるべき

という言葉の矛盾に似ているかもしれませんね。

正しさ、なんて、どこにもないんですよね。好きか、嫌いか。それしかないんだな。改めて、そう感じる毎日です。



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