すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

「ありがとう」と「すみません」を 曖昧にしない。

2016-03-03 12:30:24 | My メソッド

ありがとう、と、すみません、


どちらを多く使いますか?


私は、断然、すみません派でした。
でした、と書いてますが、今もその傾向が多少あります。


すみません


それは、わたしにとって、ビジネス上の、人間関係を円滑にするための、戦略のはずでした。


すみません

と、言いながらも、決して負けてない。むしろ、謝ってあげてる私は大人、的な。

でも、すみません、って言っても、勝てたこともなければ、仕事上のメリットを実感できたこともないんですよね。


すみません
すみません
すみません



これを、何回か言ってみてください。
どんな気持ちになりますか。

今の私には、なんと言うか、少し耐えられない気持ち悪さがあります。

謝るところじゃないところ、本当は、ありがとう、のところを、すみません、と言ってしまう。それが、私の中で不一致なんです。

すみません、が自動的になると、すみません、という言葉と一緒に、すみません、の意識が自分に植え付けられていくことなります。

それが日常になれば、悪いこともしてないのに、意識は常に、すみません、になります。

まさに、

生まれて すみません
生きてて すみません


の世界の出来上がり。
言霊の本領発揮です。


うちの夫も、私へのメールで、すみません、を連発します。ある種の戦略というか、私につべこべ言わせないための無意識の防衛というか懐柔策だと思いますが、ほとんど奏功していません。

すみません、の文字を読むと、大概私はイラっときます。理由は、二つ。

謝るところじゃないところでの、すみません、は、本当に謝るべきところの、すみません、を台無しにします。そんな風に言葉を軽く扱うことに腹が立ちます。

もう一つは、私が謝られる人に無理やりさせられている違和感です。そんなことこれっぽっちも望んでいないのに、なんか、イヤ。そんな感じです。

この違和感を無視して、すいません意識の人を服従させている人もいるのでしょう。世のDV夫やモラハラ上司なんかは、その典型だと思います。

🔹🔹🔹

言葉一つにも、その人の世界観があらわれるということです。

そんなわけで、この頃、私は、意識的に、すみません、と、ありがとう、を使いわけるようにしています。

例えば、ある会合の出欠について、期限前に催促されるようなメールを受けても、極力すみません、は使いません。

ご連絡ありがとうございます、とは書いても、返信が早くないことは詫びません。私は約束を破っていないからです。

そうした小さな選択は、自分の中の違和感、不一致がないか、で、決めてゆきます。その繰り返しが、自己肯定感という満足を生みます。

こういう姿勢でいると、不思議と、逆に謝られます。期限前に催促するようなことになって、すみません、と。

相手を責めたわけではないのに、私がニュートラルな意識でいると、相手も、事の本質が見えるのかもしれません。すみません、と返したら、また違う対応をされたかもしれません。

すみません、って楽なんですよね。無難なんですよね。ついつい多用する。とりあえず使ってしまう。

でもだからこそ、安易に使いすぎて、自分を、知らない内に、すみません、な人にしてしまうのです。


言葉が世界を創る。
言葉が私を創る。

これは、真実だと思います。

すみません、が多い方。
まずは、ありがとう、と、すみません、を使い分けてみませんか。


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