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すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

気がすむまで。

2015-01-15 09:54:24 | My メソッド
前回の記事で触れた「人生のやり残し」という言葉から改めて思うことがありました。

いてもたってもいられず焦りまくり、つんのめり、これが達成できなかったら、これを失ったら、自分はおかしくなってしまうんではという切迫する思いで、30代の私が手に入れたものが二つあります。

それは、夫との問題多き(今考えるとそうでもないかな)結婚と、30代後半の崖っぷちの妊娠。

その焦りは自分自身や自分の人生への不信感でしょ?プロセスをじっくり味わう余裕のなさでしょ?って、今なら突っ込みを入れられますが、あのときは、もうどうにもこうにも、自分の衝動を、焦燥を、うまくなだめることができなかった。

結果的に二つとも手に入ってから思っていたのは、自分が必死になったから二つともが手に入ったのだということ。

でも、最近になってその考えは違ったのかな、勘違いだったのかなと思うようになりました。

自分自身と距離をとって、自分の人生を俯瞰してみれば、あんなふうにしなくても、あんなに悲壮感を漂わせなくても、多分その二つは手に入った。のんびり構えられる私だったら、もっとスムーズに手に入ったのかもな、とも思うのです。

夫と息子は、どの道私のところに来てくれた。手垢のついた言い方をすれば、それが縁というか運命のようなものに思えるのです。

どうしても手に入れなくちゃならないもの、なんて、人生には多分ないのです。その「どうしても」がすでにあやしい。本当に必要なものは、そんな風にしなくても手に入るはずのものをいう気がします。

じゃあ、私があのとき手に入れようとしたものはなんだったのだろう。私の必死さはなんだったのだろう、と。

それはもしかして「気がすむ」ということ。私は「気がすむ」ということを手に入れたかったのかな、と思うのです。

「結婚」と「妊娠」をどこか過剰に幻想化していた自分が、必死になって、自分が納得する形で、それらを手に入れたいと思った。そして手にいれた。そして気がすんだ。

そのプロセスをどうしても踏みたかったのかな、と。

幻想が幻想だとわかって、気がすんではじめて、結婚も妊娠も客観化できるようになれたような気がします。結婚も妊娠も、それはいいものでも悪いものでもなく、自分にとって好ましいものかそうでないものでしかなくなったということです。

だから、結婚や子育てを謳歌している人たちが独身の人にいう「絶対結婚した方がいいよ」「子どもはいいよ。もつべきだよ」という少々お節介な言い草を聞くと、なんだか気恥ずかしいというか、居心地の悪い気分になります。

結婚も妊娠も、「どうしても」という類のものではないのになー、と。

でも、そういったことも、必死にあがいて、手にいれて、気がすむという着地をしなかったらわからなかっただろうな。そういう意味で、あがいた私も必要なあり方ではありました。


文芸評論家の小林秀雄が、何かの本で確かこんなことを書いていました。

東大に入ってわかったのは東大なんて大したことがない、ってこと。ただ、自分が東大に入っていなかったら、そんな気持ちになれただろうか。東大に入ったからこそ言えることなんだ。

身も蓋もない話ではありますが、昭和を代表する稀代の評論家も、日本の最高学府である東大に対してある種の幻想を抱いていたのかもしれません。そして、自分が東大に入って気がすんだから、幻想が解けた。「こんなものか」と手放せたのです。


じゃあ、手に入らなかったら、願望が叶えられなかったら、その闘いに終わりはないのか、という問いが残ります。

たとえば子どもがほしいという願いは、叶わない人も少なくありません。でも叶わなかった人の多くがその闘いを卒業しています。もちろん、その悲しさが胸の底でくすぶっている人もいるでしょう。でも、本当にすがすがしく卒業する人がいるのも事実です。

うまく卒業できた人は、どうやってそれができたのか。

おそらく諦めた、ではないの思うのです。手に入れるという方法以外で、自分の気のすむところまで、必死にあがききって、自分の落としどころを見つけた、自分との折り合いをつけた、「ここだ」という地点にたどりついたということだと思うのです。

もう、いいや。やるだけやったし。気がすんだから。

そんな境地です。

妊娠でいえば、不妊治療を納得するところまでやったということかもしれないし、養子縁組という道を選ぶことかもしれないし、心を病むほど嫉妬に苦しんだり、死にたくなるほど悩むことだったかもしれません。

手に入らない事実は、大きな失意が伴うものではあります。望んだものは手にできたほうが気持ちいいに決まっている。

ただたとえ手に入らなくても、「気がすむ」方法は見つかる。自分の気持ちととことん付き合ってやることができれば、そうした自分を自分自身が心から許可できれば、望んだものを手に入れたこととはまた違った「気がすむ」地点、深遠な境地を手にいれることができると思うのです。

こんなケースもあります。たとえば、親の助言や世間体であきらめた夢も、結婚してもひきずっている若い頃の初恋も、人生の後半になって突然ぶり返して、はたからから見たら「とんでもない行動」にでる人たち。

本人の深いところで気がすんでないまま持ち越されてしまった場合が多いと思います。

とんでもない行動によって、夢が少し形を変えて実現する場合があったり、年老いた初恋の人に再会してやっと幻想から覚める場合なんかもあるはずです。

たとえ寄り道になっても、結局は元の場所に戻ることになっても、他人から見たら無駄なことだって、それで本人が心の深いところで納得する。だから、身軽になれる、次に行けるのかもしれません。

つんのめったり、絶望したり、焦ったり、いじけたり。そうやって時間と手間をかけて気がすむまでやるって、実はものすごく価値のあることだと思うのです。


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自分を満足させるということ。

2015-01-13 10:53:55 | My メソッド
日々の生活のなかでつくづく大切だな、と思うのは、小さなことでも、些細なことでも、いかに自分の欲求に気づき、上手に満たしてあげるのかということ。

たとえば、

病院の受診時に、治療方法について疑問があったり不安があったら、たとえ先生が忙しそうにしていても勇気をもって聞いてみるということ。

レストランで食後のドリンクにコーヒーを注文はしたけれど、やっぱりアイスティに変えたくなったら、後からでも「変えて欲しいんですけど」と店員さんに頼んでみること。

通販のセールで買ったセーターが少しほつれていて「セール品ならこれくらい我慢すべき?」と思っても交換をお願いしてみること。

他人からしたら「そんなこと」だとしても、その小さな、ささいなそんなことの積み重ねが、私と社会や世の中との信頼関係を、私と私自身との信頼関係を作っているのだと思うから。

「わかりました」「大丈夫ですよ」「気づかなくてすいませんでした」

そうした言葉をもらう時、自分の欲求が受け入れられた時、その気持ち良さは、何にも替えがたい。

もちろん、毎回毎回自分の要望が通るわけでもない。断られたり、拒絶されたり、もしかして怒られることだってあるかもしれない。

でも多分、私たちが思い込んでいるよりも私たちの欲求は受け入れられる可能性が高い気がする。世界は私たちが思っているよりずっと寛容で温かかったりするのだ。

10個の欲求があって、2、3個叶わなくたって、8個叶うのなら御の字。半分だって悪くない。行動しないから叶わない0よりずっといい。「熱意で」「礼儀をもって」「きっぱりと」。お願いの仕方を洗練させることで叶う確率もきっとあがる。そう、トライ&エラー、試行錯誤して。

もちろん、自分のなかに「どっちでもいいや」という思いが勝っているなから放置でも全然構わない。

でも、「どうせ聞いてもらえない」「これくらいのことなら我慢するのが大人」的なものがブレーキをかけているのだとしたら、自分を満たすということに真剣に向き合ってみてもいいかもしれない。

最初は要求が通ったということに焦点を当てるのではなく、「自分が自分の欲求を満たすために行動できた」ということに意識を向ける。そうしたら、たとえ結果が得られなくても「行動できた」という満足感は高い。その繰り返しが、自分が自分を満たす、自分が自分を大切にすることにつながる。


赤ちゃんの時に、私たちは「おぎゃあ」と泣くことで世界に対して自分の欲求を訴えてきた。そうやって自分を満たした。すぐに自分の欲求が満たされる場合もあれば、しばらくは我慢を強いられた場合もあった。そうやって自分の欲求との折り合いの付け方を学んだ。そうやって世界と自分自身を信じることを学んだ。

大人になったからといって、欲求を満たす方法がドラスティックに変わるわけでもない。大人のやり方で、小さなこともささいなことも、そしてちょっと大きなことさえも、自分自身にも世界にも「おぎゃあ」とやったらいいんだ。簡単に諦めずに。


私の最近好きなブログに、在宅医療に情熱を傾けている長尾和宏ドクターのブログがある。先生が尊敬するビートたけしのインタビュー記事についてまとめたものが面白い。


ちゃんと生きていれば死ぬのは怖くない

長尾ドクターの医師にしてはあまりにピュアな感じも好感がもてるけれど、さすが天下のビートたけし。

「人生の満足度」こそが、人が自分の人生をちゃんと生きたかどうかを決めるという。そして、ちゃんと生きていれば死ぬのは怖くない、とも。

そうかもしれない。本当にそうかもしれない。

自分の人生を生き切るというのは、小さな満足も大きな満足もすなわち自分をどれだけ満たしてあげることができたかってことにかかってるんだ。

さらに、たけし師匠いはく、年をとるって言うことは、「やり残し」を毎日少しずつ減らしていく作業だとも。なるほどなるほど。

ユングのいう「自己実現」もまさにそういうことを言っている。

私も40代に足を踏み入れて数年、人生の後半に突入しているという意識にやっと馴染んできた。やり残しを減らすべく、小さなことからコツコツと、自分を満足させる日々を送らなくっちゃ。


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自分の気持ちしかわからない。

2014-12-24 09:11:36 | My メソッド
小さい頃から、家庭で、学校で、よく言われたものです。

「相手の立場になって考えなさい」とか、「相手の気持ちを想像してみなさい」とか。

私も、きっと、時々、夫や息子に言ってるんだろうな、と思います。わけ知り顔で。

まあ、それは多少のご愛嬌ということにして、心のどこかでは、はっきりとわかっています。

いやー、それ無理でしょう。絶対無理でしょう、って。

だって、自分が相手の立場になっても、相手の気持ちを想像してみても、それは、どこまでいっても、自分がその立場に立ったときの、「自分の気持ち」を想像することでしかないのです。

相手の本当の気持ちなんて、どうしたってわかりっこない。

ずいぶん前に、茂木健一郎さん著「脳と仮想」を引いてこんな記事を書いたことがありますが、茂木さんも、やっぱりそんなことを書いています。

例えば、贈り物ひとつとったって、もらうなら自分は後腐れない消え物がいいと思っても、贈られる側はブランドの洋食器を望んでいるかもしれない。

自分のよかれ、が、相手のよかれ、と一致しない事が多いように、自分の気持ちと相手の気持ちが一致するとは限らないのです。

その人との付き合いが深くなれば、わかる部分は増えてくるだろうけど、人が変わっていくことを前提としたら、「わかった」は、いつ、「わからなくなった」に変わるともしれません。

自分以外の他人の気持ちは究極的にはわかりっこないのだったら、結局は、自分を基準にして生きていくしかないということだと思うのです。

自分の気持ちを想像する。これが早道であり、人との関係の王道だと思います。

でも、これ、簡単に見えて、実は難しい。私もなかなかやれてません。

こんな時、あんな状況で、自分がどんな気持ちになるか。

自分の気持ちに敏感な人は比較的容易に想像できるものですが、感情をおざなりにしていたり、何かを我慢していたり、自分を後回しにばかりしていると、自分の本当の気持ちがどこかに埋もれてしまい、自分だったら…という想像がうまく働かなくなります。


こんなことがありました。

縄跳びがなかなかマスターできない息子に、私はある時軽口を叩きました。

「◯◯君(友だちの名前)は、もうできるんだって。毎日練習してるみたいよ。偉いよね。◯◯(息子の名前)も練習した方がいいんじゃない?」

軽い気持ちで、息子と友だちとを比較をしたのです。その時、息子はただ黙っていて、すぐに違う話しを始めました。

そんな息子を見ていて、私の中にモヤモヤっとしたものが起こりました。息子はどう感じたのかはわかりませんが、私自身の中に、後味の悪い不快なものが残ったのです。

しばらくして、雑誌か新聞かで、こんな話しが載っていました。

子どもが、あなたと他のママとを比較したら、どんな気持ちになるか想像してみてください。

「◯◯ちゃんのママは、お仕事もしているのに、ちゃんと手作りのおやつまで作ってくれるんだって。ママは、働いてないのに買ったおやつばかりだね。少しは頑張ったら?」

こう言われて、あなたはどんな気分になりますか?

イヤな気分になるなら、あなたが子どもを誰かと比較する事は、そのイヤな気持ちを子どもに感じさせてるということです。



これが、私にはかなりのカウンターパンチでした。私は、普段、私の気持ちを把握できていなかったのだということ。具体的に言われて、ハッとしたのですから。

でも、気づいてしまえば、子供の頃の気持ちを思い出すまでもない。今の私で十分です。

私、比較されるの、すごくイヤです。子どもの頃もイヤでしたし、大人になってからも、変わらずイヤです。

そんな、自分がイヤと感じることを息子に強いたのだということ。

私の中にあった、モヤモヤや不快は、私の中のこの矛盾だったのだと、気づきました。自分がイヤなことを、息子にしているという。

それをきっかけにして、私の息子への接し方は、劇的に変わりました。

自分のイヤなことは、息子には強いない。

そうやって、常に、自分ならどう感じるか、ということを基準にするようにしたのです。

そうすると、叱り方も何かを促す時の言い方も変わります。自分が言われて心地よいもの、イヤな気分にならないものを自然に選択できるようになってきました。

もちろん、息子の気持ちも、結局はわからない。比較されるのが私みたいにイヤかもしれないし、実はそれほどダメージを受けてないかもしれない。むしろ発奮するタイプなのかもしれない。

でも、それって実はそんなに大きなことではないのです。

私が自分の気持ちを基準でやっていくと、少なくとも、私の中に、後悔とか不快な気持ちがのこらない。迷いが生まれない。こっちの方が、ずっと大事なのだと、感覚的にわかりました。

それがたとえ、息子のよかれ、ではないとしても、息子にも心地よいことなのだということが信じられます。息子が私から学ぶことは、「自分の気持ちを大切にすること。それを基準に生きること」で、十分なのだと思うのです。


子供を叱ったり、誰かに何かを言って、自分の中に不快なものが残る時、それは、自分の本当の気持ちを想像できない時なのかもしれません。

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自由な毎日。

2014-11-29 19:55:10 | My メソッド
今の私は、

幼稚園児の「母」と、「ライター」としてのわずかな仕事と、日常生活に困難を抱えている人を対象にした「相談援助」の仕事の三つが生活の要になっている。あっ、一応、妻も、か。妻業は、相当、かなり、物凄ーくさぼっているけど。

稼ぎはとても少ないけれど、このバランスがこの上なく心地いい。育児も含めて三つとも好きなことだから仕事というより趣味に近いかも。じんわりとした達成感がいつもある。

いいトコ取りの生活で、ストレスをめったに感じなくなった。体調が悪かったりすると仕事しない日もあるし、NHKの「あさイチ」についつい見入ってしまった日には、今日の仕事はお昼食べてからにしよー!なんてこともしょっちゅう。気功とかママ友との付き合いとかがあると、いそいそと出かけていく。

ライター稼業の納期やら約束の訪問時間はもちろん真面目に守るけれど、どれもゆったりめなものしか受けないから、ほぼ自分の裁量で自分の1日を組み立てられる自由さがある。

以前の私だったらこんな自分を心から許可するなんてとてもできなかった。けれど、最近はそうでもない。変われば変わるもんだなぁとしみじみ思う。

人生の折り返しに来て、若い頃には美徳としていたシャカリキさに疲れたからか、違う価値観に比重を置くようになったからか、多分どちらもなんだよね。罪悪感もほとんどない。

こんな自分で、こんな毎日で、困ったことになったらその時考えようと思ったのだけど、今のところちっとも困ったことにならない。

むしろ、私の精神状態はすこぶるいいし、そのせいか不思議と夫も息子も楽しそうに見える。見えるだけでもないような気がするけど、どうなんだろう。会社や幼稚園は私の生活ほどは自由でもないけれど、だからといって2人から「ズルい」とも言われない。

今年の春まではフルタイムに近い状態で福祉系の事務仕事をしていた。朝早く起きて息子の弁当を作り、満員電車に乗り、夜になると延長保育に迎えに行き、インフルエンザシーズンには息子がかかって仕事を休む羽目になったらどうしようかとヒヤヒヤして、幼稚園が夏休みや午前保育の時には幼稚園児の息子の預け先を確保するために奔走したり。

お給料はそこそこもらって、「働いているママ」の顔ができて、自分の専門も役に立って、というのは確かに魅力だった。でも、肝心の私の気分、気持ちは置いてきぼりだったかも。

その仕事の契約更新をしないでゴールデンウィークに辞めた。更新を促されたとき「勤務日を週3にしてほしい」と条件を出したけれど飲んでもらえなかったのだ。勤務先が公的機関なので、イレギュラーの雇用が無理なのはわかっていたけれど、その条件を引っ込めてまで働くつもりもなく、再び無職になった。

自分が望んだこととはいえ、でも、実は、専業主婦に戻るのは怖かった。稼げない自分、外で働いていない自分、子どもとすごす時間が長くなるのが怖かったのだ。

怖い、怖い、と言いながら、でも腐らずになんとなく「やりたいかな」ということをやっていくことだけを考えた。そしたら、今の自由で満足度の高い生活が出来上がっていったというだけだった。

例えば、「ダンナが稼いでるからできるのよ」って言われたら、「正解」と答えるしかない。

でも、ダンナは稼ぐのが好きで得意なんだから、感謝はしても、卑屈になって自由な自分の居心地を悪くすることもない。



自由とくると、やっぱり義務は?となるのかな。

個人的には、
自由と義務は等分のセットなんだと思い込んで、というか、思い込まされてきたけれど、必ずしもそうでもないのでは、なんて思い始めている。

自由の範囲を広げてさらにそれに満喫すると、対極の義務は義務というより自由を美味しくしてくれるスパイスみたいなものになるんじゃないかな。だからスパイス担当の義務は等分である必要はない。入れすぎると辛くなるから、むしろ少なくするに越したことはない。ゼロにはできなくても、思い切って少なくしたって大丈夫。意外に怖いことは起こらなかったりする。

来年は、この生活を大切にして、「稼ぐ」にも少しだけこだわりたいな。どこまで行けるかな*\(^o^)/*


↑こんなラジコンがクリスマスプレゼントに欲しいらしい。




大丈夫?って聞かれたくない。

2014-10-13 15:08:51 | My メソッド
大丈夫?って聞かれたら
「大丈夫じゃないよ~」
と泣きつきたくなるときと、

自分の力を低く見積もられたみたいで
「大丈夫っ!」
って腹立たしく言い返す時がある。


違いは、なんだろう。


息子とのやりとりで、そんなことをふと思った。

年中の部屋には、年少の部屋にあった電車や車のおもちゃがなくなってブロックだけになったらしく、

「プラレールとトミカもないの?えー、つまんないね。大丈夫?」


と、やや大げさに言う私。

「だ、大丈夫だよ。心配しないでよ。大丈夫だからー」


と、めっちゃ必死にいう息子。

なんか、その必死さが笑えて、思春期みたいな言い草がおかしくて、もう一度聞いてみる。

「大丈夫?ブロックだけでいいの?」

「いいの、いいの、いいの。大丈夫だから」


やっぱり必死感(^_^;)

でも、成長したなぁ、大人っぽくなっなぁ、と嬉しくて、頼もしい。

で、この必死感の正体はなんだろう、と軽い疑問。

あれかな。

心配されるのがイヤ、思春期的に言ったら、子供扱いする母がウザい。

オレはちゃんとやれてるんだよ、トミカやプラレールがなくてもブロックで車も電車も作れるし、大丈夫?って、それじゃあ、オレがまるでガマンのできない赤ちゃんみたいじゃないかよ。

みたいな感じなのかしら。

そうかと思うと、ちょっと転んだくらいて、ちょっとお父さんに怒られたくらいで、大泣きして赤ちゃんになるときもある。大丈夫だよね?なんて、言った日には「大丈夫じゃないよー」の10倍返しにあう。

これ、子どもに限った話ではなくて、大人にもある話。私にもそんな心境の時があると思う。

大丈夫?って聞いてもらいたい時は、やっぱり大丈夫じゃない時かな。自分がいっぱいいっぱいで、大丈夫じゃないことをわかって欲しい時。聞いてくれる人はある程度甘えられる相手という条件がつく。

そういう時にも、強がって大丈夫って言ってしまう時もあるけどね。

大丈夫?って聞かれてイヤな感じをするときは、劣等感を刺激される時。子供なら背伸びしたい時。

大丈夫?が「大丈夫じゃない人」というレッテルを自分に貼ることになる感じを自覚するから、相手の言い方にそのニュアンスを読み取って、「大丈夫に決まってるじゃん。バカにしないでよ」って心境になるんだね。


大丈夫な人、
大丈夫じゃない人。


人間って、子供でも、大人になっても、どっちにも思われたいんだね。そのバランスが大事なんだね、きっと。


基本は大丈夫な人なんだけど、
大丈夫じゃない時もある。


私は、それくらいが、理想かな。そんな人でありたいです。












淡々とやり過ごす。

2014-10-06 17:28:20 | My メソッド
台風一過でさわやかな空気が気持ちいい夜です。

ところが、体調は、気圧の影響か、寒暖の落差のためか、もっと大きな季節の変わり目によるものなのか、全体的によくありません。

だるい、疲れやすい、果てしなく眠い。

そして細かく見ていくと、
鼻炎、口内炎、胃の不調、ヘソの炎症。
と、まあ、私の持病オンパレードです。
次から次から、やってくる。

以前なら、
気分ももっていかれてました。

「いつまでつづくんだろう?」
「何か重い病気が潜んでる?」
「ずっと治らなかった、どうしよう」

そして、
「なんとしても治さなくちゃ」
「原因を突き止めなくちゃ」

と焦る焦る。

症状に必要以上にエネルギーを注いでました。

意を決して、病院に行って、
変わらないこともあれば、薬が効くこともある。そんな繰り返しでした。


今は、病院に行こうかとも思わない。

もちろん、痛みや症状が強いと、手持ちの薬に頼ります。

ただ、違うのは、症状に意識を向けない。淡々とやり過ごしていれば、いつか終わるとわかっているから。

どうにかしなきゃ、
と気持ちが焦らないから、気持ちも楽ですし、症状がこじれることもなくなりました。ひとつずつ、きちんと終わります。


通っている気功教室の先生も同じようなことを言っていました。

痛みがきたら、いちいち反応しないで、
「あ、来たな」とやり過ごしましょう。
やがて去っていきますから。

それと、何がなんでも気功でなんとかするぞ、と力むのも考えもの。
急性疾患は、西洋医学が得意とするところですから、炎症がある場合などは病院に行ってください。使い分けが大事です。


自分の中に湧き上がる違和感も、嫌な出来事も同じです。

いちいち反応しない。

敵視してじたばたしたり、余計な手を加えると悪化する。

ただ、淡々とやりすごす。
なかなか難しいのですが、とても大切なことです。




嫌い、苦手、合わない。

2014-10-01 19:25:53 | My メソッド
「あの人嫌いなんだよね」

こちらの同意を求めるでもなく「嫌い」を言える人が結構好きです。

「だから、付き合わないの」


潔い人は、こうも言います。
綺麗事がなくて、周囲に自分をさらけだしている感じもいい。好き嫌いを自分に許してるのでしょうね。


私は、嫌いな人というのがいません。

苦手なタイプの人、合わない人はいるけど、それは嫌いな人ではない。

嫌いって言ってしまうと、その人を認めていない気がしてしまうのが、なんだか自分でイヤなのでしょう。

苦手は、その人を認めた上で自分とは合わないという感じ。まあ、そういうことにしているんでしょう。自分の解釈として。

ただ、最近思いました。

私は、
人を嫌ってはいけない、
人を嫌うことはみっともない、

と考えているのかな、と。

人を嫌う自分が悪い人間に思えるのかもしれません。

「嫌い」を意思表示する人には、好感を持つのに、自分が人を嫌うのは許せない。

おかしな話なんですけどね。


嫌い、も、
苦手、も、
合わない、も所詮は同じです。

少なくとも、

一緒にいたくない、
顔を合わせたくない、
話しをしたくない、


というのは同じ。


苦手という表現に逃げたことで、面倒なエネルギーを注ぐこともありえます。

苦手なだけだから、嫌いではないのだから、と付き合いにのってしまい、自分の感情をこじらせてしまう。

それで、変に相手にこだわってしまう。苦手なだけの相手にこだわってしまう自分のダメさにもこだわってしまう。

使わなくてもいいところにエネルギーを無駄使いすることにもなりかねません。

だったら、いっそ自分に「嫌い」を許しまえばいいのです。

あの人、嫌い。

ああ、でもやっぱりすごい違和感というか、恐怖に似た感情があります。

あの人、好きじゃない。

こっちなら、まだいいかも。

だから、付き合わない。

これは、すんなりいけそう。

好きじゃない人とは付き合わない。

うん、これもクリア。

あれ?!でも、これって、

好きな人としか付き合わない。
好きな人とだけ付き合う。


なんだ、そういうことじゃないですか。

「嫌い」が言いずらいのなら、あえて認定することもない。「好き」を選んでいけばいいんだ。

そうやって生きていけばいいんだ。




わたしがわたしを嫌っているとき。

2014-09-17 14:16:33 | My メソッド
つれあいがイヤになるとき
息子に腹が立つとき
焦ってつんのめるとき
言おう、言おう
やろう、やろうとするとき
誰かに軽んじられると思うとき
吸ってばかりになるとき
両肩に力が入るとき

それは、
わたしが
わたしを嫌ってるときです

焦らないと、前にでないと
なにも変えられないと
面倒なことになってしまうと
そう、思うときです

わたしが
わたしに安心できないとき

わたしが
わたしを待ってあげられないときです


わたしは
わたしを信じよう
おおらかに、ゆったりと






どっちでもいいや。

2014-09-16 10:14:09 | My メソッド
敬老の日に実家の母に電話して、息子に何か気の利いたことを言わせること。

誘いベタの私が、忙しい友だち2人をランチに誘うこと。



多くの人にとっては、なんてことないことなのだと思いますが、私には少し負担なことです。
普段使わない自分を振り絞る必要があります。

勇気、みたいなもの。

出てくる結果を見るのが、変な話、怖いんですよね。

微妙な雰囲気になったらどうしよう。
本当は断りたいのに無理させたらどうしよう。

なあんて具合です。

何を怖がってるんだ、って話ですよね。
でも、これが私なんです。
私の弱点なんですよね。

どんな結果でもいいや、と少し力を抜くと、勇気がフッと突然湧いて来ます。

で、実践。
エイヤっな感じです。

結果は、欲しくないものではなく、ありがたいものでした。まあ、欲しくないものが来ても、大丈夫だった気がします。

もう、どっちでもいいや。

勇気が湧いたとき、すでにそんな心境だったから。

どっちでもいいや。


最強です。

やりたいと思わない、だけ。

2014-09-01 11:23:07 | My メソッド
やりたくない、んじゃない。
やりたいと思わない、だけ。

やりたくないのは悪いこと。
やらないのはダメなこと。
やらないと怖いことになる。

そうやって強制や脅しが入ると、
とたんに、絶対にやりなくない、
に変わる。

やりたくない、のに、やらされること。
苦しみでしかない。

自分の、やりたいと思わない、
を大切にするために、
強制や脅しには乗らない。
強制や脅しを自ら作り上げて、
自分を苦しめない。

だから、人にも、子どもにも、
強制や脅しで何かをやらせたりしない。

やりたいと思わない、は、
いつか、
やってもいいかな、
やってみようかな、
やってみたいな、
に変わるかもしれない、
希望の状態なんだから。

もちろん、
やりたいと思わないままでも、
ちっとも構わないんだから。