前回の記事で触れた「人生のやり残し」という言葉から改めて思うことがありました。
いてもたってもいられず焦りまくり、つんのめり、これが達成できなかったら、これを失ったら、自分はおかしくなってしまうんではという切迫する思いで、30代の私が手に入れたものが二つあります。
それは、夫との問題多き(今考えるとそうでもないかな)結婚と、30代後半の崖っぷちの妊娠。
その焦りは自分自身や自分の人生への不信感でしょ?プロセスをじっくり味わう余裕のなさでしょ?って、今なら突っ込みを入れられますが、あのときは、もうどうにもこうにも、自分の衝動を、焦燥を、うまくなだめることができなかった。
結果的に二つとも手に入ってから思っていたのは、自分が必死になったから二つともが手に入ったのだということ。
でも、最近になってその考えは違ったのかな、勘違いだったのかなと思うようになりました。
自分自身と距離をとって、自分の人生を俯瞰してみれば、あんなふうにしなくても、あんなに悲壮感を漂わせなくても、多分その二つは手に入った。のんびり構えられる私だったら、もっとスムーズに手に入ったのかもな、とも思うのです。
夫と息子は、どの道私のところに来てくれた。手垢のついた言い方をすれば、それが縁というか運命のようなものに思えるのです。
どうしても手に入れなくちゃならないもの、なんて、人生には多分ないのです。その「どうしても」がすでにあやしい。本当に必要なものは、そんな風にしなくても手に入るはずのものをいう気がします。
じゃあ、私があのとき手に入れようとしたものはなんだったのだろう。私の必死さはなんだったのだろう、と。
それはもしかして「気がすむ」ということ。私は「気がすむ」ということを手に入れたかったのかな、と思うのです。
「結婚」と「妊娠」をどこか過剰に幻想化していた自分が、必死になって、自分が納得する形で、それらを手に入れたいと思った。そして手にいれた。そして気がすんだ。
そのプロセスをどうしても踏みたかったのかな、と。
幻想が幻想だとわかって、気がすんではじめて、結婚も妊娠も客観化できるようになれたような気がします。結婚も妊娠も、それはいいものでも悪いものでもなく、自分にとって好ましいものかそうでないものでしかなくなったということです。
だから、結婚や子育てを謳歌している人たちが独身の人にいう「絶対結婚した方がいいよ」「子どもはいいよ。もつべきだよ」という少々お節介な言い草を聞くと、なんだか気恥ずかしいというか、居心地の悪い気分になります。
結婚も妊娠も、「どうしても」という類のものではないのになー、と。
でも、そういったことも、必死にあがいて、手にいれて、気がすむという着地をしなかったらわからなかっただろうな。そういう意味で、あがいた私も必要なあり方ではありました。
文芸評論家の小林秀雄が、何かの本で確かこんなことを書いていました。
東大に入ってわかったのは東大なんて大したことがない、ってこと。ただ、自分が東大に入っていなかったら、そんな気持ちになれただろうか。東大に入ったからこそ言えることなんだ。
身も蓋もない話ではありますが、昭和を代表する稀代の評論家も、日本の最高学府である東大に対してある種の幻想を抱いていたのかもしれません。そして、自分が東大に入って気がすんだから、幻想が解けた。「こんなものか」と手放せたのです。
じゃあ、手に入らなかったら、願望が叶えられなかったら、その闘いに終わりはないのか、という問いが残ります。
たとえば子どもがほしいという願いは、叶わない人も少なくありません。でも叶わなかった人の多くがその闘いを卒業しています。もちろん、その悲しさが胸の底でくすぶっている人もいるでしょう。でも、本当にすがすがしく卒業する人がいるのも事実です。
うまく卒業できた人は、どうやってそれができたのか。
おそらく諦めた、ではないの思うのです。手に入れるという方法以外で、自分の気のすむところまで、必死にあがききって、自分の落としどころを見つけた、自分との折り合いをつけた、「ここだ」という地点にたどりついたということだと思うのです。
もう、いいや。やるだけやったし。気がすんだから。
そんな境地です。
妊娠でいえば、不妊治療を納得するところまでやったということかもしれないし、養子縁組という道を選ぶことかもしれないし、心を病むほど嫉妬に苦しんだり、死にたくなるほど悩むことだったかもしれません。
手に入らない事実は、大きな失意が伴うものではあります。望んだものは手にできたほうが気持ちいいに決まっている。
ただたとえ手に入らなくても、「気がすむ」方法は見つかる。自分の気持ちととことん付き合ってやることができれば、そうした自分を自分自身が心から許可できれば、望んだものを手に入れたこととはまた違った「気がすむ」地点、深遠な境地を手にいれることができると思うのです。
こんなケースもあります。たとえば、親の助言や世間体であきらめた夢も、結婚してもひきずっている若い頃の初恋も、人生の後半になって突然ぶり返して、はたからから見たら「とんでもない行動」にでる人たち。
本人の深いところで気がすんでないまま持ち越されてしまった場合が多いと思います。
とんでもない行動によって、夢が少し形を変えて実現する場合があったり、年老いた初恋の人に再会してやっと幻想から覚める場合なんかもあるはずです。
たとえ寄り道になっても、結局は元の場所に戻ることになっても、他人から見たら無駄なことだって、それで本人が心の深いところで納得する。だから、身軽になれる、次に行けるのかもしれません。
つんのめったり、絶望したり、焦ったり、いじけたり。そうやって時間と手間をかけて気がすむまでやるって、実はものすごく価値のあることだと思うのです。

photo by pakutaso.com
いてもたってもいられず焦りまくり、つんのめり、これが達成できなかったら、これを失ったら、自分はおかしくなってしまうんではという切迫する思いで、30代の私が手に入れたものが二つあります。
それは、夫との問題多き(今考えるとそうでもないかな)結婚と、30代後半の崖っぷちの妊娠。
その焦りは自分自身や自分の人生への不信感でしょ?プロセスをじっくり味わう余裕のなさでしょ?って、今なら突っ込みを入れられますが、あのときは、もうどうにもこうにも、自分の衝動を、焦燥を、うまくなだめることができなかった。
結果的に二つとも手に入ってから思っていたのは、自分が必死になったから二つともが手に入ったのだということ。
でも、最近になってその考えは違ったのかな、勘違いだったのかなと思うようになりました。
自分自身と距離をとって、自分の人生を俯瞰してみれば、あんなふうにしなくても、あんなに悲壮感を漂わせなくても、多分その二つは手に入った。のんびり構えられる私だったら、もっとスムーズに手に入ったのかもな、とも思うのです。
夫と息子は、どの道私のところに来てくれた。手垢のついた言い方をすれば、それが縁というか運命のようなものに思えるのです。
どうしても手に入れなくちゃならないもの、なんて、人生には多分ないのです。その「どうしても」がすでにあやしい。本当に必要なものは、そんな風にしなくても手に入るはずのものをいう気がします。
じゃあ、私があのとき手に入れようとしたものはなんだったのだろう。私の必死さはなんだったのだろう、と。
それはもしかして「気がすむ」ということ。私は「気がすむ」ということを手に入れたかったのかな、と思うのです。
「結婚」と「妊娠」をどこか過剰に幻想化していた自分が、必死になって、自分が納得する形で、それらを手に入れたいと思った。そして手にいれた。そして気がすんだ。
そのプロセスをどうしても踏みたかったのかな、と。
幻想が幻想だとわかって、気がすんではじめて、結婚も妊娠も客観化できるようになれたような気がします。結婚も妊娠も、それはいいものでも悪いものでもなく、自分にとって好ましいものかそうでないものでしかなくなったということです。
だから、結婚や子育てを謳歌している人たちが独身の人にいう「絶対結婚した方がいいよ」「子どもはいいよ。もつべきだよ」という少々お節介な言い草を聞くと、なんだか気恥ずかしいというか、居心地の悪い気分になります。
結婚も妊娠も、「どうしても」という類のものではないのになー、と。
でも、そういったことも、必死にあがいて、手にいれて、気がすむという着地をしなかったらわからなかっただろうな。そういう意味で、あがいた私も必要なあり方ではありました。
文芸評論家の小林秀雄が、何かの本で確かこんなことを書いていました。
東大に入ってわかったのは東大なんて大したことがない、ってこと。ただ、自分が東大に入っていなかったら、そんな気持ちになれただろうか。東大に入ったからこそ言えることなんだ。
身も蓋もない話ではありますが、昭和を代表する稀代の評論家も、日本の最高学府である東大に対してある種の幻想を抱いていたのかもしれません。そして、自分が東大に入って気がすんだから、幻想が解けた。「こんなものか」と手放せたのです。
じゃあ、手に入らなかったら、願望が叶えられなかったら、その闘いに終わりはないのか、という問いが残ります。
たとえば子どもがほしいという願いは、叶わない人も少なくありません。でも叶わなかった人の多くがその闘いを卒業しています。もちろん、その悲しさが胸の底でくすぶっている人もいるでしょう。でも、本当にすがすがしく卒業する人がいるのも事実です。
うまく卒業できた人は、どうやってそれができたのか。
おそらく諦めた、ではないの思うのです。手に入れるという方法以外で、自分の気のすむところまで、必死にあがききって、自分の落としどころを見つけた、自分との折り合いをつけた、「ここだ」という地点にたどりついたということだと思うのです。
もう、いいや。やるだけやったし。気がすんだから。
そんな境地です。
妊娠でいえば、不妊治療を納得するところまでやったということかもしれないし、養子縁組という道を選ぶことかもしれないし、心を病むほど嫉妬に苦しんだり、死にたくなるほど悩むことだったかもしれません。
手に入らない事実は、大きな失意が伴うものではあります。望んだものは手にできたほうが気持ちいいに決まっている。
ただたとえ手に入らなくても、「気がすむ」方法は見つかる。自分の気持ちととことん付き合ってやることができれば、そうした自分を自分自身が心から許可できれば、望んだものを手に入れたこととはまた違った「気がすむ」地点、深遠な境地を手にいれることができると思うのです。
こんなケースもあります。たとえば、親の助言や世間体であきらめた夢も、結婚してもひきずっている若い頃の初恋も、人生の後半になって突然ぶり返して、はたからから見たら「とんでもない行動」にでる人たち。
本人の深いところで気がすんでないまま持ち越されてしまった場合が多いと思います。
とんでもない行動によって、夢が少し形を変えて実現する場合があったり、年老いた初恋の人に再会してやっと幻想から覚める場合なんかもあるはずです。
たとえ寄り道になっても、結局は元の場所に戻ることになっても、他人から見たら無駄なことだって、それで本人が心の深いところで納得する。だから、身軽になれる、次に行けるのかもしれません。
つんのめったり、絶望したり、焦ったり、いじけたり。そうやって時間と手間をかけて気がすむまでやるって、実はものすごく価値のあることだと思うのです。

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