むかし「男は黙って・・・・ビール」という宣伝句があった。
いまこれが通じる人の割合は、世界中でどのくらいだろうか。
秘匿の必要もないことを、だまって続け、実行表明をしないやってます地蔵は、無意味な存在でしかない。
子供じみた世界中の多くのメディアに、大人ぶった様子を見せても、その真意を伝える能力は、メディアにはない。
いつかはわかってくれるという願望は、永久に無意味な幻想に終わる。
努力の宣伝はクサくなるが、実際に行っていることを、さらっと伝える、そんな「力を持った文学者を秘書官に」とまで書いて、さて正式の職名はとそれらしいホームページを開くと、出てきたのがこの図。
図表の文字をなぜこんな濃い色で塗りつぶすのか、まったく意図がわからない。
政治というものは、わかりにくさに価値があるとでも、先生方は思っていらっしゃるのだろうか。
文部科学省のメルマガに二つの会議案内が載ってきた。
・新しい時代の初等中等教育の在り方特別部会(第12回)の開催について
・新しい時代の高等学校教育の在り方ワーキンググループ(第10回)の開催について
質問受口が見つかってこれから質問文を書こうかと思っていた矢先、先日読んだトンデモニュースとかかわりのありそうな議題なので、質問は1週間先送りにしようか。
そうこうしているうちに気合が抜けそうな気がしないでもないが。
捜しものは「ある」と思って探さないと見つからない。
文部科学省のホームページにも「文部科学省に関する御意見・お問合せ窓口案内」というページがあった。
普通の窓口案内とは違って、そこでクイズを一発かまされる。
「幼稚園、小学校、中学校、高等学校教育関連」という看板があって、そこに内容が指定されている。
小学校・中学校・高等学校の授業における学習内容(以下1~4に掲げる分野を除く)に関すること
1.体育に関すること
2.外国語教育に関すること
3.情報教育に関すること
4.専門高校における産業教育に関すること
4項目の指定があれば、それに該当しないと受け付けないのかと、通常の頭では考える。
ところが、この4項目は、該当項目でなく除外項目なのだ。
このページを作ったお役人のニヤニヤ顔が想像できる。
もし受付嬢に、「これとこれこれにこれ」と4項を早口で並べ立てられ、「ではありませんね」と言われたら、即答できるのはよほど頭の鋭い人だろう。
思わぬところでクイズを仕掛けられたので、質問文を書く気が失せた。
一日を争うことでもないから、明日にしよう。
Web の検索は、何かを知るには便利だが、その事情を確かめるにはなかなかうまくいかないことがある。
国語教育から文学作品を追い出して、生徒会の規約や駐車場の契約書を読ませるようになるという、とんでもないニュースが入ってきた。
文部科学省のホームページから、そのことを審議された経緯などを探ろうとしたが、大きな藪にどこから足を踏み入れたらよいのか、まだ見当を着けられずにいる、はてさて。
今年の8月10日は山の日だった。
<2020年>
8月8日(土)
8月9日(日) 東京五輪閉会式の予定~不成立
8月10日(月)山の日
来年は1日ずれて8月9日になる。
<2021年>
8月7日(土)
8月8日(日)東京五輪閉会式の予定~未定
8月9日(月)山の日
山はほとんど動かなくても、山の日はつける理屈次第でいつのまにか1日2日は簡単に動く。
山の日に何をしようというわけでもない、曜日通りの表の仕事をしている人たちが、多分もっと休みたいからそう決めたのだろう。
山の日があり、海の日があっても、川の日はない。
毎年どこかの川が暴れるのは、人々の生活に山よりも海よりも多くかかわっている川の日をなぜ作らないのかという、川の神のお怒りなのではないだろうか。
いま、千代田のどこかで行われる記者会見は、金乞人の集まりらしい。
質問の意図が、金乞人根性丸出しなのだ。
その金乞人たちを操る者は、ある筋からの指令、あるいは要請をもとに、発言、失言の狙いどころを決め、質問の言葉や順序を用意する。
その指示に従うことが記者の仕事だと教え込まれている金乞人たちは、その質問が、何を意味しているかなどには全く無頓着、命ぜられた筋書き通りにただただ質問を続ける。
なぜそんなことを仕事と思って続けるのか、生活がカカッているからという、自分への慰めかごまかしの言葉を忘れずにいるからだ。
尖閣に、すぐに置いてほしいものがあった。
置けばよい、毎日中身を確かめに行けばよい。
鳩がくわえてきた便りが入っているかもしれない。
それがあったら、世界に向けて大ニュースになる。
この実効支配には、決死隊のような常駐もいらない。
ヒントは、「尖閣に郵便ポストを」という1242への、海外からの一通のメールから。
開発途上国と呼ばれる国がある。
実態との乖離の甚だしい呼び名の一つである。
そう呼ばれることを恥辱と感じなければ、自ら呼び名が返上されることはない。
呼ばれることで生まれる利益があるから。
開発のつもりが借金漬けで占領の憂き目に遭い、開発行為を途絶させられた国もある。
開発援助のなかには、開発を途絶させた末の侵略を目的に行われているものもあるのだった。
報道に載らない測定結果には意義深いものがある。
その一つに、逆境への耐久力がある。
なかには素っ頓狂なのがいても、それはばらつきの裾のほう。
自慢にならない裾野の広さは、寄せ集め民族でできた国に、顕著に表れている。
やはり耐久力は信頼性の重要な要素なのだ。
目的も方法も知らされずに行われた測定には、終結宣言は出されない。
目的の位相が変わっていても、終わりました、もう結構ですとは、どこからも誰からも声がかからない。
記録は必要、発表は無意味でも、続けていた毎日報を止めるには根拠を求められ、それが別の騒動のもとになる。
伝える側は騒動を知らせればよいので、紙面や放送時間はそれで埋められる。
締まらない事柄を話題にすると、話題の転換もまた難しくなる、これは参った。
人の心の動きを測るには、測られていることを知られてはならない。
知ってしまえばそれまでよという唄があったが、測られているということへの心の構えができてしまうから。
心の構えは自由を束縛する。
束縛された心は、もう自分のものではなくなっている。
それぞれのものでない心のうちに、測る価値はないのだ。
反応は測定によって確かめられる。
測定は、反応を確かめるだけでなく、反応を操作することもできる。
病気の測定にしても、罹病以前に特定できた感染者数を、測定結果として発表すれば、それが増加している間は人心は不安側に反応する。
感染即罹病でないことはわかっていても、感染者数が前日より増えたという測定結果を聞いただけで、不安度は高まる。
その測定が、反応の変化を測定しているということには、多くの人は気づかない。
騒動の目的を捉えにくいのは、1回ごとの目標を、目的達成においてないから。
目的に向かって、じわじわと歩が進めば、その回の騒動は成功。
1回ごとの騒動が、社会の空気に影響を与え、何かわからない不安を持つ人の割合が増えていけば、その騒動は成功とされるのだ。