法律ができると定義も一緒に生まれる。
定義は新しい考えではない。
もともとあった概念を、どこにどういう範囲で当てはめるかということで定義が成り立つ。
定義とは、枠あるいは仕切りのようなものに過ぎないとも言えそうである。
枠が設けられると、そこに必ず現れるものがある。
決められた領域の端のほうにうろうろしていて、すきあらばはみ出そうという者たちである。
このはみ出しはふたとおり、違反か例外か、どちらかになる。
違反は「だめ」で片付くからよいのだが、例外のほうは厄介である。
ずっこけたことをしでかしていても、例外だと認めさせてしまえば、それからは大威張りで悪事でも何でもやってのける。
法律に違反しなければ罰せられない、罰せられないことは悪事ではないという逆流論法の旗が振られる。
いわゆる法治国家の弱点というか欠点というか、そこが泣き所でもある。
裁きの対象になるようなことをしでかす者がいなければ、法律はいらない。
新しい法律が必要になるというのは、それだけおかしな行為をする者が増えているということで、法律制定件数の増加は倫理度の低下と相関があり、自慢になることではない。
一緒に生まれてくる定義の質が、法律の質の診断材料になることは昨日書いた。
こういう自慢にならないことを仕事の種にしている人が集まって、年中わいわいがやがややっているというのは、地球の外から見ると、ずいぶんおかしな具合にしか思えないのではないだろうか。
はみ出し、ずっこけの例外が定義から生まれるのなら、定義をなくしてしまえば、例外は認めない、すべからくきちんとしなさいということになるのではないか。
いっそ、ことごとにわかりにくい法律を作るのはやめにして、集団に生きる人間の本道に必要なことだけを決めておけばよい。
知りませんでしたなどと言えないような、わかりやすいことだけが示されていればよい。
そうすれば、人々の生活とかかわりのないいざこざごとに、あたら叡智を浪費することもなく、どうしたら本当の幸せが得られるかなどに、もっと智恵が回るようになると思うのだがどうだろうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます