操り人形は、操られていることを観客に忘れさせれば、一流の演技と言える。
操り方の巧拙が気になるうちは、三流以下の学芸会級だろう。
庶民の政治感覚の低さを、「操られている人が意識していない」と表現した人がいる。
操り人形には、もともと意識はないのだから、それがあたりまえのような気もする。
多分その人は、時流に漂っている人が、操られるままの人形のようになってしまっていると言いたかったのだろう。
人形のようでは言い過ぎになるかとの気遣いが、歯に衣を被せる結果になったのかもしれない。
まっすぐものを言いにくい今の世で、聞きたくないことを聞かせる苦心の程が感じられる。
この数行の拙文でさえ、終わりまで読ませずに切り取ってしまえば、その論会に参加した発言者をなじるようなことにもなってしまう。
それと似たようなことをして、バカな議員に騒ぎのタネを提供するのがジャーナルの仕事であると仕込まれている記者たちこそ、操られ人形の見本ではないだろうか。