生物の生存には、他者とのつながりが必要です。
飼い主も心もとなくなってきた犬のために、老犬ホームという施設もできていると聞きました。
全く単独で生き続けているように見えるものでも、どこか目に見えないところでつながりができているかもしれません。
無人島にいる人でも、生まれおちる前には親のつながりがあったはずです。
必要なことはなくなりません。「つながり」がこの世からなくなることはありません。
ただ、だいじなのはつながり方で、「つながり」自体が目的化されてしまうと、つながる目的のほうは忘れ去られ、なんでもよいからつながっていればということにもなります。
目的の要素が消えてしまったつながりが「腐れ縁」です。
何かよくわからないけれどもつながっているようには見える、無目的擬似的なつながりもあります。
結びつきが、古いままの名簿であったり、あるときの記念写真であったり、電車の通らなくなった線路のように、淋しげなつながりもあります。
つながりの数が無限であるという偉大さが感じられても、いまいちばん危ないつながりは、顔も見せあわず素性も知らせあわない、電波に乗ってできたつながりでしょう。