フェイスブックで、いつもとても素晴らしく、人の心をひきつける文章を書かれる方がある。
その方の文章を読むと、ついついコメントをしたくなる。
そして、またついつい長くなってしまい、申し訳なく思うのだが、
なぜか、次々と文章が浮かんで、書き進めてしまうのである。
そして、それを後でこのブログに書こうと思っても、書けないので、それをここへコピペしておく。
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、◎ タコも妙だが イカ も 妙だ、、!
最初にそれを捕まえた奴も驚きだが
、、それを喰った奴にはもっと驚く、!
おそらく私には出来ず 飢え死にしたかもしれない、、、、
人間は 何でも 喰う、、、
かつて 吉田茂 首相は、、記者に 食の健康を問われて、、、
、、わしゃあ 人を喰っとる、!と答えて 皆 を笑わせた、、国会で バカヤロー と 失言、解散、、あの ユーモアと笑顔
、葉巻 姿は 人々に愛された、、、
珍味、美食の中には、しぶい、にがい、からい、等 甘さ以外の うま味を由しとする 楽しみがある、、、
おそらく あの 吉田茂も、しぶい、にがい、からい、等の やからを たんと
味わったことであろう、、、
私達の 日常においても 甘く やさしい奴ばかりではない、、でも これは 喰う側の言い分で 私を喰う 人々も さぞ 味の悪いことかもしれない、、、
、、それでも フグのような 毒は無いぞ
! トゲやイガイガも だいぶ削ぎ落とした、、、
この珍味もお試しあれ、、
不思議な 味が する、、、
、、あなたは 喰える奴かな?!味は?!
毒素は かんべんしておくれ、、!
ー ー ー
【投稿1】伊藤義昭 先生へ。
食べることは、地球上にいるものすべてが行っている行動ですね。
食べる物と食べられる物。
また、食べて毒のあるものと無いもの。
さらに、その毒に殺られるものと殺られないもの。
この差は何だろうか?と思ったりします。
そして、最近は、食べたいのに食べられない人も出てきています。
「どく」の点をとれば「とく」となり、「あく」を抜いたら「うまみ」が残るとも言います。
食べると、分解されて、血肉になりますが、分解される要素は、皆同じで、再構成されるにすぎないのです。
死んで土に埋められて、虫や菌が繁殖して分解をする。
これも同じ事でしょう。
大きく見れば、すべては循環してい
る。
ところが、心は違う。
そこに様々な感情が残る。
これが一番重要だと思う。
思いつくままに。。。ありがとうございました。
【返信1】 長谷川 喜郎 さまへ。
、、天然の 循環とは 食べる という 表現で 理解しやすいようですね、、
集合、離散 を繰り返す 中に 進歩 発展が な仕上げられる、、必要、不要も 試される、、育つ 学び といえましょうか、、おみちですね、、!
【投稿2】 伊藤義昭 先生へ。
ここまで人間の身体が、自由用自在に使えるようになった時、この体をどのように使うか。これが一つの課題だと思います。
「元の理」から言えば、立教の9千9百9十9年以前。
女猿が一匹残ったところからだと思われます。
仕込まれた知恵文字で、この体を使って今日まで来たわけです。
今現在、中国共産党やアメリカからの侵略に対して、仕切りに、日本のルーツを説いている方々がありますが、「元の理」は日本という国が出来る以前からの話であり、この話があるために、日本では弾圧・迫害されて来ました。
それゆえに「元の理」の話は、『復元』が提唱されるまで、表で語られる事は無く、信心の深い人々だけに説かれて受け継がれて来ました。
元の理の話で、ぢばは、人間宿しこんだ場所として説かれていますが、生み降ろした場所は、1回目は宮、2回目には墓、3回目ははら(辻々の地蔵など)と説かれています。
そして、陸地が出来た時に、遠くまで食べ物を求めて行ったものが、からの人となり、遠くへ行かなかった人々がにほんの陸地に上がったと言われています。
どんどんと食べ物を求めて行った人々が、日本よりも遠い地に上がり、なかなか食べ物が育たないところで苦労をして、様々な知恵を使い、生きるための争いをしてきたようにも思えます。
日本に上がったものは、水も豊富にあり、欲をかかずにつつましく生活するには十分な土地であったのではと思えます。
そして、人の寿命も今とは違い短かった事を考えると、魂も次々と生まれ変わりを重ねて、それぞれのいんねんに応じた土地に、どんどんと生まれ変わったのではないかと思えます。
これも循環です。
今、国・民族によっての考え方が異なり、その考えの深さが異なる事を感じる時、日本には相当古く、沢山の生まれ変わりを重ねた魂の人々が集まっているのではないかと思えたりします。
「正文遺韻抄」で人間の数という話しで、人間にあこがれた動物の魂が生まれ変わって人間になったという事が書かれています。また、『逸話編』でも教祖が、小エビの大きなものに対して、「早く人間に引き上げてもらえよ」と記されています。これからしても、人間の魂には、新しい古い、経験の深い浅いの差があると思われます。
食べられること、死ぬことによっての循環。これもとても大切で、それまでの心作りが、一番求められているように感じます。
自分が一番優れていると考えるのは、若者に多いです。
ところが、社会に出てよくできる人を見ると、自分はダメだと、自信喪失したりします。
自信を喪失しながらも、努力を重ねて、経験を積んだ人は、どんな事にでも対応できて、あとの人を導ける人になるのではないかと思います。
人に施して、その施しに対してお礼を言われて喜ぶ人もあるでしょう。
お礼を言われずとも、その人が変わっていく姿を喜ぶ人もあるでしょう。
これも、成人の違いの現れと思います。
出直して、生まれ変わらずとも、悟って変化・進化・成人する人々も沢山あると思います。
この事は、ひのきしんとボランティアの違いで、お道の人は良く分かると思います。
食べられて、出直して循環しますが、その循環する回数の多さで、その一生に悟り成長する速度が違うのかもと、最近思うようになりました。
長文で失礼しました。
【返信2】 長谷川 喜郎 さまへ。
、、偉大 なる 論文を 賜りました
、、さて、、すべて その通りだと 思います、、私の 視点 受け止め方を少し 申し上げてみますと、、元始まりの お話しは 子どもに語る おとぎ話のようです、、その 真実は 宇宙での 生命誕生の プロセスを 語り 生命の 実行のツールとして 地球を なした、、
、、生命史 や 地球史の 枠の中に 押し込めるには 無理がありますね、、!
、、とてつもなく 遠大なことを 示唆していると思います、、、
、、そのほか 神 の 認識についても
私達は とてつもない 誤解の中にある と思います、、、
・・・・・・・
コピペしたところ、また思い浮かぶので、思うがままに。。。
言葉で、1人称、2人称、3人称。。というものがあるが、そのように考え方も次元という言葉で考えて見ると、
自分自身だけの事を考えることを1次元。
自分と家族の事を考えることを2次元。
自分と家族とその周囲の事(小さな集団での事)を考えることを3次元。
とした時。
この自分の身近な人々だけではなく、国などの大勢の事まで考えることを4次元と出来るだろう。
そして、次に国々をまとめて、地球全体では5次元となるだろう。
地球全体についてかんがえるとなると、それは神様の意識となると思う。
私たちは、どこまで、意識を広げることが出来るだろうかとも思う。
「元の理」は、地球全体を見ると共に、過去から現在までをも意識しているので、地球全体の5次元と時間を合わせて、6次元の考え方と言えるのではないかと思えている。
今の新型コロナをはじめとした世界の状況、情報を考えた時、これから必要とされるのは、地球規模の考え方だと思われる。
地球規模という事は、宇宙規模ともいえる。
こうした次元を重ねた考え方は、様々な経験と年限を重ねなければ出来ないものである。
教祖は「我が身にはもう50やと思えども、神の眼にはまださきがある」として、秀司先生に若いお嫁さんをもらわれた。
また「50,60は鼻たれ小僧」とも言われている。
そして80を過ぎた頃、「もうこの年になれば、夜にどんな人を寄せて話をしても。。」と言われて、お話を説かれたと言われている。
私も60の年となって、最近になってようやく分かって来た事が沢山ある。
身体はアチコチが痛み、動きは悪くなって来たが、揉んでもらえば回復はする。
教祖も、あんまを頼まれて、あんまをする人をとても喜ばれた話がある。
私以上に、70,80,90となる人は、それまでの経験や悟りによる言葉が、若い人々が行動するための後ろ盾になると思う。
世間では、60になれば定年であり、隠居という考え方であるが、教祖の教えからすると、神様の代理、教祖の代理の役目をするのは、その年になってからで、とても重要だとも思えるのである。
今現在の地球規模の騒動が治まった暁には、「根が現れば恐れ入るぞや」の如く、この教えが必要になってくると思えて仕方がない。
その時に、教祖の教えを間違えなく、自信をもって説けねば、働きたいと思われる親神様に申し訳ないのではと思う。
なんとか世界の事情を治めてもらいたいと「『復元』の研究」のグループを作り、手持ちの資料を配信し始めたが、そのための一助になればと思えて来た。
今日、大教会へ朝、用事を思いついて車を走らせた。
その道中、太平洋戦争当時、私の祖母と父親だけで大教会の留守番をしており、戦火で大教会が燃える中、お目標様をお守りした事を思い出した。
今まさに、いつも書いているが戦争中である。
国対国というように見えていながら、もっと奥深い善の人と悪の人との戦い、ウソで塗り固めた人と真実で生きている人との戦いである。
ウソを見抜けば、真実で生きて来た人の勝となり、見抜けなければウソをついて来た人々の勝となる。
人を助けるためにも、自分が守られるためにも「誠真実」を求められる親神様は、「八つのほこり」を教えられて「ほこりはよけて通れよ」と教えられた。
そのほこりの最たるものは、神様さえも無くしてしまう「こうまん」である。
いくら「ほこりをよけよ」と言われても、その「ほこりを知らね」ば、「ほこりに気がつかなければ」避けようがないのである。
「ほこり」は眼に見えずまた、「うそと追従」はそれを隠してしまうのである。
だから要注意なのである。
ただ、ほこりは静かにしていれば、積もって見えるようになる。
また、暗闇の中の一筋の光にあてれば、舞っているものでも見えるのである。
不安で心乱れていては、見えるものも見えなくなる。
親神様に凭れて心を静め、親神様の教えに照らして、ほこりをよけて通りたい、皆さん方も気を付けて欲しいと思うばかりである。
今日もさまざまな世界の事情をFacebookに共有した。
その中に「偽旗作戦」というものがあった。
ウソの情報を流して、人民を誘導しようとするものである。
これも、ほこりであり、こうしたほこりをよける事が大切だと思ったのである。
メールを見たら、丁度去年の今日、人間の数について投稿していた。
何かの参考になれば幸いです。
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