今日は、1月28日です。
1月24日にふと思い浮かんで、フェイスブックに書き留め、それから26日まで書いた事を、ここにまとめておきます。
・・(1)・・・
1月24日 5時
アルバイトが終わって地下鉄の中、一人言。
かしものかりものから、思案したことを今日書いた。
その時書きながら、「教祖に入り込まれた親神様は、くにとこたち様?おもたり様?」と思った。
これまでこんなことは思うこともなかった。
元の理では、「くにとこたち様・月様」から「おもたり様・日様」に相談を掛けて、人間を作り育てる道具を寄せた。
その道具は、「くにとこたち様」と「おもたり様」に食べられるから、道具の働きは、「くにとこたち様」と「おもたり様」の物となる。
そして、「くにとこたち様」は「イザナギ様・男ひながた」に入り込み、「おもたり様」は「イザナミ様・女ひながた」に入り込む。
入り込まれた「イザナギ、イザナミ様」は、男女の一の道具を持つことになり、夫婦のひながたとなる。
おやさま、中山みきさまは、イザナミ様の魂。
夫善兵衛さまは、イザナギ様の魂と言われる。
※以前見た資料が見当たらないが、「正文遺韻」36頁 善兵衛様御長逝に
「このお方も、素よりいんねんのお魂で、親様でありますから、助け一条の御心がけでおわしましたので、御教祖様と共に、施しを御好み遊ばされました。」と記されている。
教祖には、人間宿仕込みのイザナミ様の魂があって、その体に親神様は入り込まれて、様々な事を始められた。
これまでは、陰から守護していたのが、表に現れて始めるとして。
「我は天の将軍なり、みきを神の社に貰う受けたい。・・・」と言葉を出されて、夫善兵衛様の承諾を得て、この教えは始まった。
イザナギ様の魂の、夫善兵衛様に、親神様は入り込まれない。
教祖に入り込まれた親神様は、「月様?それとも日様?」
ちょっとした疑問である。
・・(2)・・・
1月25日 13時
大雪に見舞われ、急遽電車でおぢばへ帰ることとした近鉄電車の中より。
昨日、おやさまに入り込まれた親神様は、「くにとこたち・月様?、おもたり・日様?」と疑問を書いた。
その続きを書いてみたい。
まず、「くにとこたち様」をこれからは、「月様」と書き、「おもたり様」を「日様」と書く。
「月様」は「日様」に相談をされたわけだが、「月様」の働きは「水気・水」、「日様」の働きは「温み・火」である。
水と火について、よく対照的に解釈をされる話を聞いたが、よくよく考えると、対照的では全く無く、異なるものなのである。
つまり、「水」は物であり、「火」は物ではない。
「火」は暖かい・燃えるなどと言う、物の状態を示している。
「水」に暖かみが無くなれば、「氷」と言う形になり、暖かみが加わり続けると、「水蒸気」という目には見えない状態になるが、水は存在する。
「水」は触ると冷たく感じるので、「許されがたい理」を私は連想し、「火」は暖かみから「許される情」を連想する。
この「二つが一つ」で調和をとり、この世、物質の世界の元を司っているように感じている。
チョット話はそれるが、
人間の身体の両手両足に付いている指について、「親神様の10の働き・十柱の神を形どって、10本の指を付けておいた」と教えられる。
そして、親指は「月日様の如く」と言われており、他の指の動きに添って常に動くようにあり、それによって細かな作業と力のいる作業も出来る。
この事から、
親指である「月日」の働きなしに、他の指である「風、つなぎ、つっぱり、引き出し、飲み食い出入り、切る働き」はない。
さらに、これらの働きがあってこそ、小指とされる「男ひながた、女ひながた」の働きが出来て、子供が増える楽しみとなる。
さて、
「月様」の働きである、「水気・水」を物質と考えたとき、砂漠が思い浮かんだ。
そして、様々ある物質を繋いでいるのは水?と思えて、「皮繋ぎ」の働きも、「月様」が添えばこそ。と思えたのである。
また、
「日様」の働きである温みは、物が燃えるからエネルギーを得て、様々なものが動くことが出来る。
「引き出す」という動き・働き、「飲み食い出入り、循環」という動き・働き、その他全ての働きも「日様」の温みによるエネルギーなくては成り立たないのである。
燃えるという事は、物質が分解するのである。
その他、物質が分解して小さく切り刻まれて小さくなる時に、つないでいた力がエネルギーなると考えると、この「切る」という働きも、「日様」が沿えばこそと思える。
しかし、この沿っている「月日様」の働きは、見た目には感じられない。
このように思案して初めて感じられる。
本当に陰の、元の守護だと思うばかりである。
「月日様」がすべての元。と考えた時、おふでさきに言われる「月日が一の神」を得心するのである。
「十柱の神様の働き」をここまで考えて、改めて、「教祖に入り込まれたのは?」と考えてみたいが、まもなく電車が着くので、ここまでにする。
また次回、思うがままに。
14時です。
・・・(3)・・・
1月26日 8時30分
大祭参拝に行く前に。。。(春の大祭は11時開始)
昨日電車の中で、書きかけた、「教祖に入り込まれたのは月様?日様?」の続きです。
「月様」と「日様」は、「水」と「火」。「水気」と「温み」。
また、「男神」と「女神」である。
※「月日」「月様日様」と言うのに、働きについては「火水」「温み水気」と言うのだろうかと、書きながら思った。。(余談)
つまり、
人間を作ろうとされた時にすでに、男女の区別は出来ていたわけである。
「男」と「女」の性分、性格、また考え方を思案すると、異なる事が分かる。
不思議にも
異なっているのだが、求めあい。
異なっているが故に、理解できずに衝突もする。
そうした二人の間に、子供が出来て、家庭を作り、それが広がる。
これがこの世の仕組みである。
「教祖のひながた」を考える時、人間を溺愛されて、「そんなことまでするの?」と思える逸話が多分にある。
例えば、ご自分がおいしいと思えば、何でも人間にやろうとする。
困っている姿を見れば、自分の事を捨ててでもその者をたすけようとする。我が子の命までも捧げてである。
これに対して、
反対する者、高慢なものに対しては、厳然とした態度を取り、理詰めで話をされる。
多くの神官や僧侶、また官憲などに対する態度がそれにあたる。
その中「本当に神があるならば、この身にバチを当てて見よ」という者に対しては「火水風とも退くと知れ」と言い切られている。
この両方の姿を思い浮かべる時、まったく極端な相反する姿を感じる。
先回「水の冷たいイメージから理を感じる」「温みの温かい感じから情を感じる」という事を書いたが、教祖にはこの両方が備わっているように思うのである。
私自身が男という性格からして、女性の発言などを思うと、
「理」と「情」の違いを感じずにはおられない。
男だから情がないという訳ではない。また女だから理詰めの事が出来ないわけではない。
ただ、大半の人々を見ていると、本来の「男女の性分」に流されて、それが理解できずに右往左往されている人々が多いように感じるのである。
教祖が、この「理」と「情」をしっかりと使い分けられることを考えると、「月様日様のどちらの魂が入っているか?」というのは、「両方の魂が入り、それぞれが相談をして、様々な状況に応じて必要な態度を示されている」と思えるのである。
夫婦になって、子供を育てる時、夫は夫の考えで子供に接する。妻は妻の考えで子供に接する。
この二つを子供は得ることが出来て、様々な学びをして大人へと成人して、新たな家族を作るのである。
「教祖のひながた」を考える時、夫善兵衛様が出直されるまでは、尽くす一方であったように思う。
夫善兵衛様が出直されて、親神様の思召しから母屋を売り払う事となる。
その時には、「これから世界助けに掛かる祝って下され」と宣言されて、こかん様を浪速へ神名流しに出されるのである。
そして母屋の建っていた場所につとめ場所が出来、ぢば定めが行われて、つとめの完成へと道が進むのである。
そしてさらに多くの人が集うようになり、80才を過ぎた頃には、夜中にでも人々に話しを取り次がれ、「この年になれば、女の身でありながら、夜中に人を寄せても誰もおかしく思う事も無いだろう」とも言われているのである。
人間の考えを考慮した、男女の節度を慮った導き方をされている。
これを思うと、夫婦の理と情の使い分けを一人でなされて、子供である人間を育てていると思わずにはいられないのである。
私たちは、元来、夫婦なり、心を寄せ合い相談をして、良いように理と情を使い分けて、次につながる子供たちを教え導く役目があると思うのである。
これから、ご本部へ参拝に出かけます。
思うがままに。。。
・・・(4)・・・
1月28日 10時
大教会神殿当番にて。。
本部の大祭を終えて、また御用を終えて、昨日支部の用事を済ませて昼から大教会の当番をしている。
当番と言っても、ご本部のように結界内で着座奉仕をするわけでもなく、事務所の電話番をしながら、お願いがあればその対応をする。
昨日は、新しい教会名称録を印刷する作業をした。
今日は名簿の作業をしようとしたのだが、なぜかソフトが起動しない。
再インストールするにも時間がかかるので、あきらめた。
そして、今、フェイスブックに思うがままに書いたものを添削して、このブログを書いている。
さて、
「教祖に入り込まれた親神様は、月様?日様?」の結論は、「両方」。
おふでさきで「月日」を指して「一の神」と言われるそのままなのである。
この二つの異なるものの調和がとれた中に、私たち人間は生きることが出来、そして陽気ぐらしが出来るのである。
親神様という呼称は、人間が付けた呼称であるが、この親神という意味は、様々な神の元の神、親の神という意味も考えられる。
それと共に、人間は親となって子を育てる。これが連綿と続いてこそ楽しみがある。
親となって子供を育てる苦労。これもまた親の喜びの一つである。
こうした親の心を学ぶようにと導かれる神様と考える事も出来ると思う。
世の中には、大人となっても子供を育てることが出来ない人々も沢山ある。
その原因は何か?と様々な人々が研究をされていると思う。
私は、その子供を育てる親の手本を教祖が一人で示された。
そのようにも思えるのである。
「人は神」とも言われる。
かしものかりものからすれば、どれだけ心で思っても、十柱の神様の働きがどれ一つ無くなっても、私たちの身体は動く事も出来ない。
親神様の許しがあればこそ、心の思うがままに体を使う事が出来るのである。
つまり、身体に現れる事が、親神様からのメッセージと捉えることができるであろう。
よく霊の言葉が聞こえるという方たちがあるが、霊の声は聞こえずとも、身体の調子から親神様の思いを悟り、心の向きを正していく。
親神様が望まれる「誠真実」の心が使えるようになって行く。
そして、子供をそのように育てていく。
これが天理教に縁づいた人々の目指すところではないかと思う。
・・・
話しはそれるが、ひながたという事から。。。
「苦労が先」と教えられ、教祖のお話を真っすぐに受けて通られたのが、本席様・飯降伊蔵先生である。
またこの本席様は、十柱の神様の魂ではない。
我われと同じ、ドジョウの魂である。
この本席様の歩まれた道。
これも大切なひながただと私は思う。
思うがままに。。。
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