詳しくは書けないが、昨日は、警察署、銀行と走り回った。
その中、不思議と皆様のお心を頂いて、一つの結果を見せてもらう事が出来た。
本当に、大難は小難にとお守り頂いて、ありがたいと思った。
人の幸せとは、お金ばかりではないわけであるが、
「かりたるならばりがいるで、はやくへんさいれいをいうなり」と
おふでさきに書かれてある。
お金が一番貸し借りが簡単である。
この借りるという事、これにもそれぞれの、徳分というものが関わると思う。
この徳分というものは、人から言われるとよくは思えないもので、自分で自覚するものだと思っている。
人に迷惑をかけたり、人のお金を盗むような事をしたならば、その時は良いように思えるだろうが、親神様は必ず見ている。
そのかやしは、時を経て、必ず出てくる。これが理である。
人を喜ばせれば、これのかやしも、時を経て、必ず出てくる。これも理である。
いくら助けたいと思っても、その人の心が変わらねば、助かる事は出来ない。
たすかって欲しいと、いくらその時に、援助をしてみても、それが無駄になる事もある。
悪事をしたならば、自ら悔いあたらめて行くこと。これを自ら行わなければ、助かる理は頂けない。
教祖(中山みき様)が、「月日のやしろ」となられる以前に、毒を盛られて、苦しまれた事が、教祖伝(16頁)に書かれている。
この犯人を「これは、神や仏が私のおなかの中を、お掃除されたのです。」と許された。
そして、この犯人は悔い改めて、自ら身を引いたとの事であるが、この後の事について、『正文遺韻』には、秀司様の妾の子供として生まれて、男を求めてどこかへ行ったというような事が書かれてある。
そして、これはどこにあったか忘れたのだが、白い牛が教祖の元にすり寄り、涙を流して、教祖が「これはかのの生まれ変わりや」と周囲に伝えたところ、涙を流して、死んだ。というのを記憶している。
何が言いたいかというと、人間として生まれている間に、お話を聞いて心を変えるようにすれば、人間として良くなっていくが、お話を聞き入れずに、自分の性分のままに通ったならば、牛馬となり、一から通らねばならぬというお話がある事を伝えたかった。
だから、今ついつい出来心でと、悪事を重ねる者があるならば、それを悔い改める事。それを繰り返すことが大切であろう。
以前も書いたが、性分はなかなか取れない。けれども、真剣に親神様に詫びて、人の上に心を尽くす心定めが出来るならば、親神様はお働き下さる。
これが、理である。
この理を、誠と思い、日々を通るか通らないか、それはそれぞれ次第である。
どんな親の元に生まれるのか。どんな親の立場の人の元で過ごすか、これもすべていんねんの上にある事。
大切なのは、その中で親神様の御守護を求めて、どのように通るかであろう。
ちょっと、疲れて、書きなぐるように書いたので、いつも以上に読みにくいと思う。
お許し頂きたい。
自らのいんねんの自覚。これは人から言われてするものではない。
「いわんいえんの理を聞き分けよ」と、言われるところがここにもあると思う。
親神様・教祖、今日も一日ありがとうございました。
世界の人が、陽気ぐらしが出来ますように、お導きの程をよろしくお願いします。
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