今「こうき話」を書換えている。なかなか進まないのだが、それを行う理由について書いてみたい。
その前に、私は、親神様の存在を信じる者である。
以前にも書いたが、親神様は一神ともいえるが、多神の総称とも取れる事を知っておいて、その上での話である。
神の存在については、「不思議が神」とか「願う誠に現れる利益が神」などと示されており、「医者にかかり、医者の手余りが助かれば、それが神の姿」とも教えられている。
だから、まずは「医者に掛かってそれから」という事である。
現在の医学でも不明な病気は多々ある。今の新型コロナにしてもそうである。(このウィルスが人為的に作られたかどうかが問題ではなく、それに対応できるだけの医学や薬学が無いという意味である。)
また、あったとしても、その治療法を知っている医者などが近くにいなくては、いないと同じである。
そうした中に、親神様に願い、不思議を見せて頂く事、これが親神様のおられる証拠である。
もう一つ言えるのは、医者が驚くほどの回復を見せる場合である。通常ならば3カ月はかかると言われるものが、2カ月、1カ月などで治る場合である。これも不思議としてとらえて、親神様の存在を示すものと思える。
また、巡り合わせという事にも不思議を感じる、一秒ずれたお陰で出会えることもあり、出会えない事もある。
一寸先は闇という言葉があるが、先の事については誰も分からない。すべては神様の采配。
その采配の元となるのは心遣いだと、いんねんやほこりなどで教えられる。
親神様の言葉通りになって来た事も、親神様の存在の証明になる。そして、この言葉は教えである。
まだまだ、親神様の存在について考えられることはあるかと思うが、こうした事を経験して、私は親神様はあり、常に私たちの心を見定めて、陽気ぐらしが出来る心へと変えるように導いてくれていると思っている。
その上で、なぜ「こうき話」ということであるが、
この「こうき話」は、教祖に直接会われた人々が、話を聞いて、その時のお話を書かれたものである。(すでに、明治14年の和歌体と明治16年の説話体は書いてある。)
そして、そこには親神様について、また十柱の神様について、神道見立て、仏教見立てなどとして、人間を導いて来た道筋が示されているとも思えるからである。
また、「元の理」によれば、「最初に宿しこんだ子数(9億9万9千9百9十9人)の年限が経った時」に、神として拝をさせようと約束をし、それを元として、親神様は教祖に入り込まれて、この教えが始まったのである。
ここで思えるのは、「約束」の重要性と、「定められた時」というものである。
「定められた時」については、以前、戦争について書いたと思うが、それ以外にも、教祖がご休息所へ移られる時には、時を待って移られている。
日本で陰暦から陽暦に代わったことについても、おさしづか何かで記述があった記憶がある。
こうした事も、明らかにしたいと思うのである。
そしてまた、十柱の神様以外にも、「こうき話」には神名が出てくる。「アツケンミョウオウ」という名である。これは、3柱の神様の総称のように思え、その神様は人足社となる人に入り込むのか、その人がその神なのかというようにも思えたりするのである。
「元の理」で、虫鳥畜類と八千八度の生まれ変わりをさせて、今日の我々の身体にして下さったと記されている。
そして、「信者の栞」には、
「この世元はじまりの時も、この十全の御守護によりて、でけたち来ました故に、その証拠に、人間には、手足とも十本の指を付けておいたとの仰せでございます。
親指は月日様のごとく、あと八本は八柱の道具衆のごとくで、親指があるので、あとの指が役に立つごとく、月日様が八柱の道具衆をお使いになりまして、この世をはじめ下され、今においても御守護を下さるのやとお聞かせ下されています。」
とあり、親指は月日の理、「クニトコタチ」「オモタリ」の理で、その二柱が他の指に添うから、物を握れ副雑な作業が出来るとも聞いている。さらには、水と温みがなければ、どんな働きも出来ないのである。突っ張るにしても繋ぐにしても、引っ張るにしても、風にしても、切るにしても、循環する働きにしても、全てにおいて、この水と温みがあってすべてが起こっているのである。
これらの働きから、人間は与えられた知恵で様々な事を考えて、この地球上での生活また、医学や科学を行っているのである。
けれども、それを行う心の働きについては、まだまだなのである。
医学や科学も、自分欲得、名誉欲しさに行う人もあるだろう。そんな名誉には興味はなく、知識を得る事のみに執着している人もあるだろう。中には人を助けたいという思いで、求めている人もあるだろう。
富を得たい、自分の欲望のために人を殺し続けた人もあるだろう。殺される人々を助けたいと思い続けて、苦心をする人もあるだろう。
この自分の心に気が付かずに、自分中心の心で善悪を判断し、争いが絶えないのである。
なぜ争いが絶えないのか、この心の差、行動の元に気が付いていない。これが親神様の残念の一つだと思える。
「元の理」からすれば、一番最初は「泥の海」であったのである。土や水や様々なものが入り混じり、混とんとして先が見えない状態である。
それがだんだんと固まり、地と天とが分かれて、そして、地には段々と陸地が出来て、人間は陸上の生活をするようになったと言われているのである。
この間、人間は生まれ変わりをしているのである。何度も絶滅しながらも、不思議と一部が残り、虫鳥畜類と変化をして、今の人間になり、そして、知恵文字を授けられて、文明が出来てきているのである。
ここまでは、人間の姿形の話である。
けれども、この文明が出来ても、魂は生き通しであるから、それが次の生まれた時の心に作用している。この心が、混とんとしている。善悪が分からない。自分中心だから、自然と人をないがしろにしても何とも思わない人もあり、人の幸せ喜びが気になって仕方がない人もある。この両方を持ち合わせて、その場その場で使っている人もある。
この心をしっかりと、自覚させて、地球の天地が分かれたと同様に、人々の心も分からせたい。それぞれに自覚させたい。というのが親神様の思いのように思うのである。
このように思えるのは、『おふでさき』に
いまゝでも今がこのよのはじまりと ゆうてあれどもなんの事やら ( 7号035)
このたびのぢうよぢざいでとくしんせ いまゝでこんな事ハしろまい ( 7号036)
註釈 35、36
今までからも、今がこの世の初まりと、度々説いてはいるが、人間は、それが何の事やら分からずにいたけれども、このたび現れた親神の自由自在の働きを見て、その意味をよく悟れ。銘々の心の入れ替えによって、どんな自由も得られるというこの珍しい守護を今までだれも知らなかったであろう。
註 今がこの世のはじまりとは、親神様がこのだめの教によって、一列人間の心身の更生に着手下さる事を仰せられたのである。
とあり、この「今がこの世のはじまり」が「元はじまり」と重なるからである。
そして、心を変えて御守護を頂いた話は山ほどあり、『逸話編』にも生きながらの出直しについてなど、これまで積み重ねて来た「いんねん」と心の切り替えについて話しも沢山ある。
『山名大教会史』の書き換えが、警察署へ神様の話を提出した文章で止まっているのだが、心を切り替える事を望まず、不思議な御守護ばかりを望む人や、自分には出来ないと思う人には、とても読み辛いものと感じて、書き換えが止っているのである。
今、様々な情報が飛び交っている。そして明日何が起きるか、と不安に思う人も多いかと思う。
親神様は、人間の存在している目的を「陽気ぐらしをさせたいため」と明確に示されている。(知っていても、言葉でしか理解していない人も多いと思う。)
だから、天理教を信じる人は、これは当然の事で不思議にも思わない事である。けれども、それを知らない人々にとっては、目的が分からないために、それぞれの置かれている状況によって、考え方は異なり、善悪の判断も異なってくるのである。
ただ、「陽気ぐらしをさせたい」という目的は分かっても、現状を把握し、それに対する知恵を使えなければ、その目的には到達できないのである。
しっかりと思案をする材料は、世界中にちりばめられた情報であり、それを思案する知恵を授けて頂く事も、親神様の御守護だと思う。
とても長くなったが、「こうき話」を読みやすくしようと思ったのは、
世界中にちりばめられた情報の一つ、これが「こうき話」であり、これについての話し合いが、ネット上で行われる材料になればと思ってのことである。
人の心が変わるのは、正解を求めるのではなく、正解を探す中にあると思う。
最後までお付き合い下さった方、ありがとうございました。
読みにくくて申し訳ありません。
何かの参考になればありがたいと思います。
親神様、教祖、どうぞ大難は小難にとお守り下さいませ。
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