元の理について、先日このブログに書いたが、
昔よく聞かされたのは、「教祖はこうきを作れと言われたので、書いたものを持って行ったが、違うと言われたので、この話は間違っている」という話である。ひどい場合は、これを理由に、伝えられている「いんねん」などの言葉を否定する場合もあった。
当時はよく理解が出来なかったのだが、教祖のお言葉を求めていくにつれて、これは、言葉の取り違いから起きている事だと思うようになった。
そして、近年の情報操作という事から、悪く言えば、教祖の話を消すために、そのような情報操作をされたのかもしれないとも思うようになった。
そこで、「こうき」「こうき話」「元の理」について、考えてみたい。下部に「こうき」に関する事柄を撮影して張り付けておくが、その中で、
『改訂 天理教事典』の314頁「こうき話の研究」の項を見てみる。(赤字)
まず、こうき話が書かれた経緯を次のように書かれている。(読みにくくなると思うが、参考となる「おふでさき」や「おさしづ」を青字でつけ足しておく。)
(1)親神は明治13、14年頃集中的に教理を説いて、これを取り次ぎに記憶させられた。すなわち教祖は、特別な仕方で繰り返して同一の内容のお話を口述した。「こうきを作れ」というお言葉に基づいて、明治14年以降に2,3の取り次が記憶しているところを書き記した。この手記本を「こうき本」と呼ばれ、それぞれの筆者により表現の精粗や文体の相違はあるが、その内容よりみれば、一つのお話に基づく事は明瞭である。このお話を現在「こうき話」と呼んでいる。当時より一部の信者はこれを「泥海古記(どろうみこうき)」と称しており、現在でもこの呼称が用いられることがあるが、こうき本の表紙にこの名称を記したものは見当たらない。今日の「元はじまりの話(元の理)」と言っている話を当時の人が「泥海古記」と呼んでいたらしい。このこうき話は、一貫した教理であるため、当時の取次ぎが教祖のお話された事を体系化して記したように理解する向きもあるが、このお話が初めから体系化されていることは「おふでさき」の内容と対照してみると明らかである。
とある。また、教祖が言われた「こうき」と「こうき話」については、
(2)こうき話に関連した「こうき」についてお話があったのは、「おふでさき」によれば、明治2年にすでに見える(ふ2:10)。
たん/\と神のしゆごふとゆうものハ
めつらし事をみなしかけるで (2-5)
にち/\に神の心のせきこみを
みないちれつハなんとをもてる (2-6)
なにゝてもやまいいたみハさらになし
神のせきこみてびきなるそや (2-7)
せきこみもなにゆへなるとゆうならば
つとめのにんぢうほしい事から (2-8)
このつとめなんの事やとをもている
よろづたすけのもよふばかりを (2-9)
このたすけいまばかりとハをもうなよ
これまつたいのこふきなるぞや (2-10)
一寸はなしのぼせかんてきゆうている
やまいでハない神のせきこみ (2-11)
たん/\としんぢつ神の一ちよふ
といてきかせどまだハかりない (2-12)
これ以降明治9年(ふ12:101)まで合計15回「こうき」の語が「おふでさき」に出ている。特に第5号(明治7年)では、こうきによって布教伝道すること(30~45)、
ちかみちもよくもこふまんないよふに
たゞ一すぢのほんみちにでよ (5-30)
このみちについたるならばいつまても
これにいほんのこふきなるのや (5-31)
にほんにもこふきがでけた事ならば
なんでもからをまゝにするなり (5-32)
このよふをはぢめてからのしんぢつを
またいまゝでハゆうた事なし (5-33)
このはなしむつかし事であるけれど
ゆハずにいればたれもしらんで (5-34)
たん/\とどのよな事もゆてきかす
心しずめてしかときくなり (5-35)
いまゝでハいかなるほふとゆうたとて
もふこれからハほふハきかんで (5-36)
これまてハゑださきにてわほふなぞと
をしへてあれどさきをみていよ (5-37)
にほんにハいまゝでなにもしらいでも
これからさきのみちをたのしゆめ (5-38)
ほふやとてたれがするとハをもうなよ
このよ初た神のなす事 (5-39)
どのよふなむつかし事とゆうたとて
神がしんちつうけとりたなら (5-40)
いまゝでハからやにほんとゆうたれど
これからさきハにほんばかりや (5-41)
ゑださきハをふきにみへてあかんもの
かまへばをれるさきをみていよ (5-42)
もとなるハちいさいよふでねがえらい
とのよな事も元をしるなり (5-43)
ぢつやとてほふがへらいとをもうなよ
こゝろのまことこれがしんぢつ (5-44)
にんけんハあざないものであるからに
めづらし事をほふなぞとゆう (5-45)
第10号(明治8年)では、「こうきを拵えて(作成して)」これを広めることが述べられている。(87~97)
なに事も月日の心をもうにわ
にほんにこふきほしい事から (10-87)
にほんにもこふきをたしかこしらへて
それひろめたらからハまゝなり (10-88)
このはなしなんとをもふてみなのもの
にほんのものハみなわが事や (10-89)
それしらずなんとをもふて上たるハ
むねがわからん月日さんねん (10-90)
このところどのよなこふきしたるとも
これハにほんのたからなるぞや (10-91)
一れつの心さだめてしやんせよ
はやくこふきをまつよふにせよ (10-92)
しんぢつのこふきがでけた事ならば
どんな事でも月日ひろめる (10-93)
月日よりひろめをするとゆうたとて
みなの心ハしよちでけまい (10-94)
それゆへにとりつきよりにしいかりと
たのみをくからしよちしていよ (10-95)
このひがらこくけんきたる事ならば
なんどき月日どこいゝくやら (10-96)
にち/\にとりつぎの人しいかりと
心しづめてはやくかゝれよ (10-97)
こうきについては、2代真柱の研究がある(中山正善『こふきの研究』昭和32年)。この巻末にこうき本の代表的なもの4種が活字印刷として載せられ、説明が加えられている。これは「こうき話」研究の基本文書である。
こうきは、「たすけ一条の道」(つとめとさづけ)や「神の話」(さ22・4・26その他)
No. :(1巻406頁3行)
明治22年4月26日午後11時 陰暦3月27日
『飯降政甚夜中厳しく左の下歯痛むに付伺』
さあ/\仕込み/\/\、さあ/\仕込み/\/\。道これ一つ/\古き者より皆改め。互い/\知らせ合い、皆仕込まにゃならん。皆これ/\いつ/\まで子供子供言うて居てはどうもならん。一時辛抱して居られんで。一時心が寄る。あちら一つ席々急がし成る。遠くの所出て来る。一つ話して聞かさにゃならん。何かの処、順々改め。別席の処、俺も/\、互い/\処、心合せて夜々話合うてくれねばならん。忙しくなる。それからだん/\身上入り込んでの身の障りと言う。皆んなどんな者でも、神の話知らんようではどうもならん。いつ/\まで子供々々ではどうもならん。取次々々一時にどんな事始まるものではない。取次々々あちらへも出越し、こちらへもそれ/\皆用がある人多いで。席をする者が無いで。一名々々事情あれば、皆それ/\運んでくれるよう。
と言われたものからなるとみられるが、教祖より取次ぎに教えられ、教会本部の伝承になっていて、別席や講習会その他の仕込みを通して布教伝道者に伝えられ、これを広める事によって人々をたすけるのである。こうきの一つである「こうき話」も原典として定本化はされていないが、その内容は、布教伝道者がよく理解し、解説してきている。
とある。
気になって、おさしづを「こうき」検索してみたところ、次のものが出て来た。
No. :(1巻23頁13行)
明治20年3月19日午後12時 陰暦2月25日
『刻限御話』
さあ/\思やん/\、今一時直ぐ、早く/\。これからだん/\刻限話。さあ/\もうその場踏んで、後はあちらこちら聞きに来るよう、いつまでも同じ事をする。たゞこうきという。それ/\の処より刻限、赤きは赤き、黒きは黒き者に連れられ、さあ/\だん/\早や/\。たゞ仕事場、それと言うは、元々より聞き込み足らん。今に聞いてる者もある。これを聞いて置け。一度二度何にもならん。又つとめ一度二度、大抵方はよい。元の方は言うてる場何やら分からん。これまでというは、日日守りを付くというは、幾度も早く守りのさしづあれども聞き遁がし。これは磨き立て、掃除を行き届き。さあ/\何を尋ね聞いてくれ。あちら静か、何でも理に適う事なら、何時にても尋ね変え、二度三度も尋ね。一言聞きて銘々の事を忘れ。
そして、「こふき」で検索をすると、一番初めのおさしづの説明書きに出て来た。
No. :(1巻1頁1行)
明治20年1月4日 陰暦12月11日
『教祖お急込みにて御身の内御様子あらたまり、御障りに付、飯降伊蔵へ御伺いを願うと、厳しくおさしづありたり。(教祖御居間の次の間にて)』
さあ/\もう十分詰み切った。これまで何よの事も聞かせ置いたが、すっきり分からん。何程言うても分かる者は無い。これが残念。疑うて暮らし居るがよく思案せよ。さあ神が言う事嘘なら、四十九年前より今までこの道続きはせまい。今までに言うた事見えてある。これで思やんせよ。さあ、もうこのまゝ退いて了うか、納まって了うか。
説明文;この時教祖の御身上は冷たくなる。それに驚き、一月五日(陰暦十二月十二日)より鳴物不揃にて御詫のおつとめ為したれども、おつとめ内々故、門を閉めて夜分秘そかにする為にや、教祖は何も召し上らず、八日(陰暦十二月十五日)の夜の相談には(当時居合わせし者は昨年教会の話合いの人なり)、世界なみの事二分、神様の事八分、心を入れつとめを為す事、こふき通りに十分致す事に決まり、明方五時に終る。
九日(陰暦十二月十六日)の朝より教祖御気分宜しく、御飯も少々ずつ召し上りたり、それ故皆々大いに喜び居ると、又々教祖より御話あり。
この説明文を読むと、当時の方々は、「こうき」をおつとめの仕方と思っていたようにも受け取れる。
親神様の思いと、当時の人々の受け取り方の違いを感じる。今の私たちはどうだろうか。先のおさしづに「それ/\の処より刻限、赤きは赤き、黒きは黒き者に連れられ、さあ/\だん/\早や/\。たゞ仕事場、それと言うは、元々より聞き込み足らん。今に聞いてる者もある。これを聞いて置け。」と言われることを思うと、しっかりと親神様の話や教祖方の歩みを聞きこむことが大切ではないかと思う。
次に、「こうき話」として残されている写本についての事が書かれてある。
(3)写本と内容。こうき話の内容は、前記2代真柱の著書巻末のこうき本に詳しいが、この種のこうき本(手記本ないし写本)は、明治14年より20年に至る間に書かれたものが数十種存在し、製作の年代によって14年本とか16年本とか呼ばれている(明治14年以前の写本でこうき話の内容の一部が記されているもの存在し、これらも現在こうき話の写本と見なされて「辻10年本」の如き呼称が用いられる傾向にあるが、参考文書としてみる方が無難である)。これらのこうき本は大別して、和歌体と散文体(説話体ともいわれる)に分けられ、14年本と16年本がその代表とされるが、これは便宜的呼称である。
それぞれの校訂本を求める作業が試みられている。検討本を参考にして「こうき話」の内容を求めるのであるが、(こうき本を対象検討すれば簡単に求められるように考えられやすいが、)それにはこうき話そのものの教理的意義(上述)なり、原典との関係なりを明らかにして、これに基づいてなされねばならないのであろう。
「こうき話」を復元して文書にまとめる研究は、14年本(『復元』第14号)および16年本(『復元』第15号)についてその試みがなされているが、まだ定本はない。「こうき話」と「こうき」については、中山正善『こうきの研究』があり、この中に、こうきは「口記」ではないかという事が論じられている。
さて、
ここまで見て来て、「こうき話」は、おふでさき(明治2年から明治9年まで)に「こうき」について書かれた後に、教祖が「こうきを作れ」と言われたのを受けて書かれた話(明治14年以降)である。
そして、この話は、別席の話の元となっている事も分かるが、この話の内容についての精査は、まだ十分に出来ていない事も分かる。
そして、教祖が「こうきを作れ」と言われた事が、100年以上たった今現在、出来ているのか?という事を思えた。
おふでさきに書かれてる「こうき」をしっかりと理解して、親神様が求められた道を歩むこと、その一歩一歩を歩みたいと思う。
以下に、「こうき」に関する『改訂 天理教事典』を載せておく、「こうき」関する資料も書かれてあるので、読める方は読んでみてもらい、参考にして頂きたい。
今、世間・世界中は、これまで本当だと思っていた事がうそだったという事が見えてきており、何が本当なのかが分からなくなってきている。
けれども、親神様の存在、教祖のお話はこれまでの先人の苦労によって、真実が残されている。
人々が親神様に対してうそを言ったことも、しっかりと残っている。
さて、今日も一日頑張んべ~~~。
親神様・教祖、どうぞ大難は小難にとお守りください。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます