三日月ノート

日々の出来事を気ままに。

お寺

2013年05月03日 20時51分23秒 | 思い

暖かい陽射しの中、
静かな住宅街を抜けて。

お墓には小さな缶ビールが供えてありました。

薔薇を育てていた故人に、
白い薔薇と、
白いアルストロメリアを。

どうぞ、安らかに。

映画:飢餓海峡

2013年05月03日 10時43分07秒 | 映画
TSUTAYAで他に2本一緒に借りたのですが、最近、気持ちがドンヨリしていたので、観るのが延び延びになっていた作品です・・・。

公開は1965年。
映画の最初に「東映W106方式」と出てきたので何かと思い調べてみると、16mmで撮影したフィルム映像を35mmに変換したものとのことでした。

映画に限らずフィルムで写真を撮影したことのあるかたなら簡単に想像がつくと思いますが、16mm→35mmとすることで、画面の粒子が荒くなり、より殺伐とした雰囲気を醸し出すことに成功しているようでした。

また、3時間という長い作品ですが、全く長さを感じさせず最後まで引き込まれるように観ることができました。
こういう作品、最近ではなかなか見ないですね。

観終わって最初に浮かんだのは「業(ごう)」という言葉でしょうか。キリスト教でいう「原罪」かもしれません。

戦後、極貧の生活を経験し、人生のある一瞬だけ交差した男女のそれぞれの人生を中心に物語が進みます。
男は過去の自分を消し去り、新たな人生を作り上げることでなんとか生きて行こうとする一方で、女は執念にも似た思いで男を思い続け、10年の歳月を超えてまでその幻影を追い続ける。

男にとって女は自分が消し去りたい過去に住む者であり、今の自分を生かすためにはあってはならない存在。
しかし女にとっては、男は自分をここまで生かしてくれた恩人であり、消してしまうことなどできない存在。

その二人が再会したとき、悲劇が起きてしまう。

自分では選ぶことのできない「生まれ」。
幼いころに育った環境。
ちょっとしたきっかけで思いもよらぬ方向に進んでいく人生。
社会の固定概念や一般的な善悪の基準。

起きた物事の一つ一つを善悪で区切ることは簡単だと思います。
でも、どうしてそれが起きてしまったのかということに思いを馳せるとき、単に善悪として簡単に切り分けていいのだろうかと疑問が起こります。

人間の生きることの哀しさが、最初から最後まで流れている映画でした。