三日月ノート

日々の出来事を気ままに。

もはや太郎の作品ではない。

2018年05月18日 22時13分37秒 | 芸術一般

大阪万博記念公園にある太陽の塔の内部公開を観に行ってきました。

初めて見る太陽の塔は大きかった!

万博記念公園の最寄駅からもニョッキリ頭が見えていました。

内部公開を観るには事前予約が必要で、順番に最大16名づつ時間差で入って塔の内部の階段を上っていきます。

残念ながら写真撮影は不可。
他の民族学博物館などは撮影オーケーなのに、何で?という気もしましたが。

中は極彩色で、以前の埃っぽい雰囲気は全くなく、きらびやかで派手。

「以前のものをただ再現するのではなく、現代に太郎が生きていたらどう表現するか」を目指していたとか。

ただ、個人的にはそのまま再現して欲しかった。

コレはコレでいいのだと思うけど、はっきり言えるのは、これはもはや岡本太郎の作品ではないという事。

「太郎が生きていたら、どんなものを作ろうとしたか」なんて、誰にもわからないし、それができると思うのは奢り。

太郎はその生涯で「原点回帰」を求めていたように思います(彼の執筆した書物や川崎の美術館などからの印象ですが)。

そうした事を思うと、今回の改修は太郎の目指すものとは正反対ではないのか?という思いが大きいです。

「修復」というのは、あくまでオリジナルにどこまでも忠実に再現して行く事で、足しても引いてもいけない。

改良?するよりも、遥かに難しい。

今回の内部公開はもちろん素晴らしいとは思いましたが、日本においては「修復」して長く後世に伝えていく文化は根付かないのかもしれないな、と寂しい気がしました。

あと、内部のゴリラだけが「年月を感じでもらえるよう、そのままにしてあります」と、ゴリラの頭は頭蓋骨が欠損したまま、足は朽ちたままにしてあったのですが、他はみんなピカピカなのに、ゴリラだけこんな姿でかわいそうに思ってしまいましたよ。

はじめての落語

2016年04月13日 17時42分13秒 | 芸術一般

はじめてのオペラに続き、昨日は国立演芸場に初めて落語を観に行きました。
たまたま友人から声をかけてもらったのがきっかけでした。

『《噺小屋》卯月の独り看板 柳家小満ん 雪月花 七』

演目
柳家小はぜ 狸の鯉
柳家小満ん 長屋の花見
        和歌三神
        おかめ団子

考えてみたら、幕が下から上にサーッと上がるのも初めて見た気がします・・・。

まず、前座の演目は私のような落語の素人でも明快でわかりやすいものでした。
若手の噺家さんで、江戸言葉というよりは現代語に近い(慣れていないだけ?)話し方で、とても聞き取りやすかったです。

そして続く3席は、それぞれ「雪」「月」「花」(演目の順序からすると、花、雪、月)を題材(というのが正しいのか?知識不足ですみません)にしたもので、花びらが舞い散る江戸の町並み、小雪の降る河川敷、風の強い月の夜が思い起こされます。

小満ん師匠は、やはりご高齢のためか時々言葉につまる部分がありましたが、それも自然な会話として聞かせるあたりは上手いなぁと素人ながら思ってしまいました。
初めての落語のくせに、かなり上から目線ですが(笑)

一番印象と違っていたのは、落語ってただ単に「笑い」を取るものだけではなんだなという事でした。

これは、聞き手側にある程度の知識や教養がないと笑いを理解できないというか、少なくとも面白みが減ってしまうということです。
私も聞きながら自分の教養のなさを思い知らされた気がします。

たとえば今回の演目でいえば、噺の中に出てくる歌人の名前や、江戸ことばを理解できなければ「笑いのツボ」がわからないまま噺が進行していってしまうわけです。

恐らく噺家によって演目も違うので、もっと気楽に楽しめるものもあるとは思いますが。

最近、若者たちにも落語が流行っていると昨日のニュースのコーナーでやっていました。
若手の噺家が若者に受け入れやすい形で噺をすることで、落語が入りやすい形で若者に広がっているそうです。

そういったものの是非はさておき、難しくても質の高いものに触れるというのはやはり重要な事なんだろうなと思います。
特に、伝統芸能、芸術に関して言えば、それを簡略化したものは別物と個人的には思っています。
いいものに触れなければ、いいものはいつまでも理解できないのではないでしょうか。

落語にしても歌舞伎にしても、オペラにしてもオーケストラにしても演劇にしても、その「形」は違っていてもそこに流れる本質というか、良質な「血」のようなものはどこか共通するものがあるように思うからです。

かなり話がそれました。閑話休題。

落語を観て思ったのは、まず自分の日本の文化に対する理解の乏しさ。
そして伝統芸能をはじめ芸術のレベルは、決して発する側にのみに依存しているのではなく、受け手のレベルも最終的なレベルを決めているのだろうなと。
自然に気軽に落語を楽しむには、決して無教養ではいけないということでした。

そう考えると、伝統芸能を後世に残していけるかどうかは噺家の努力だけではなく受け手の教養レベルが大いに関連してくるだろうし、ではそれだけの教養が受け手にあるのかと考えたとき、自分も含めかなり危うい状況なんだろうなと思ってしまいます。

7月下旬に近くでまた小満ん師匠の落語が観られるようでしたので、再チャレンジ?してみたいと思います。