三日月ノート

日々の出来事を気ままに。

片方の白い手袋

2013年11月20日 07時34分41秒 | よしなしごと
私が小学校1年生の冬、母に真っ白いミトンの手袋(スキーグローブ)を買ってもらったことがありました。
普段は「すぐに汚すから」と言って、白いものはなかなか買って貰えなかったのに、この時は何故か買って貰えたのです。

ところが数日後、なんと私はその片方を無くしてしまったのでした。

喜びは一転し、私は悲しくて悲しくて、その後何日かは残った片方の手袋を枕元に置いてメソメソしていました。

すると見かねた母は、
「そんなもの、さっさと捨ててしまいなさい!そんなのがあるからいつまでも悲しいんだから!」
と私に言ったのでした。

それを私がどうやって捨てたのかは全く記憶にないのですが、捨ててしまった後はいつしかその手袋のことは忘れてしまったようでした。

今思い返すと、一見、子供に対しては残酷な母の言葉も、いいとこ突いてるなぁと思います。

確かに手袋の片方を残しておいても使えるわけでもなし、悲しい記憶がグルグルするだけで。

「忘れるために手放す」って、ときには大事なことかもしれません。



トラックレーサーのシェイクダウン

2013年11月17日 18時54分12秒 | 自転車


本日は新車のシェイクダウン。
T川K輪場での練習会に参加しました。

周回30周の後、参加者(希望者)のタイム計測。

私はハロン2本と600SD、400SDを計測しました。

クロモリから乗り換えたので、タイムも出てくれるかと思いきや、そんなに甘くはありませんでした・・・。

ハロンはかけ下ろした途端に脚が乳酸でパンパンになって、いつものラインまで立ち漕ぎで加速できずに腰を下ろしてしまいました。
タイムも今までに見たこともないようなタイム。

ちょっと納得いかなかったのでもう一本。1秒縮まりましたが、通常のタイムよりもさらに1秒遅い。なんじゃこりゃ。

後の600と400も納得いくタイムとはお世辞にも言えず。

今の平日の練習だと、現状維持もできないということのようです。
ちょっと考えないといけません。

しかし、距離はあれだけしか走ってないのに、この脚の疲労感・・・バンクならでは・・・。

映画『エディット・ピアフ~愛の讃歌~』

2013年11月09日 23時08分37秒 | 映画
エディット・ピアフの生涯がシャンソンと共に描かれています。

音楽界のトップに上り詰めた反面、その私生活は波乱に満ちていて、お世辞にも品がいいとは言えない人となりが伝わってきます。

たくさんのシャンソンが字幕付きで流れてくるのですが、どれもが人生の哀しみとそれを背負いながら生きる人間の逞しさが歌詞に込められていて、これを見ながら、もっと他の曲も聴きたくなりました。

映画の最後に、47歳のピアフが身体をモルヒネに蝕まれて死を迎える直前、砂浜で若いジャーナリストからのインタビューを受ける場面があるのですが、それまでの暗く辛い人生の末に、ようやく辿り着いた静けさを感じ、併せて流れる歌で胸が詰まりそうになりました。

副題に「愛の讃歌」と付いていますが、最後のステージで歌っていた歌(邦題:水に流して)が、ピアフの生涯にはぴったりだと思いました。

ちなみにこの曲の日本語タイトルなのですが、「過去は燃やしてしまった」という歌詞から取ったのだとは思いますが、ピアフの生き様を思うとき、曲の中で繰り返し歌われている「私は後悔しない」の部分を日本語タイトルに採用して欲しかったなぁと、個人的には思います。

映画【砂の器:1974年製作】ネタバレあり

2013年11月02日 16時41分53秒 | 映画
松本清張原作で、丹波哲郎、加藤剛、森田健作、緒方拳などが出演しています。(チョイ役で渥美清!)

一種の推理ドラマとも言えますが、それ以上に人間の業というものを感じさせられる映画です。

国鉄蒲田駅操車場から発見された身元不明の被害者は、死後、顔を石で何度も殴られており、強い恨みによる犯行とされますが、捜査が進むにつれて、この被害者は誰からも好かれ、非常に思いやりがあり、恨みを買うことなど考えられないような人物として浮かび上がってきます。

一方、加害者は新進気鋭の作曲家。これからその地位を確たるものにしようとする時期でした。

事件は、被害者と加害者とが数十年ぶりに再会したことがきっかけでした。

消息がわからなかった加害者が東京にいることを知り、被害者はすぐに会いに行きます。
そして、ハンセン病のため国立療養所へ入所している(加害者の)父に、一目でいいから会ってあげて欲しいと懇願します。

加害者は幼い頃、ハンセン病を患い村を追われた父と1年間放浪の旅をし、最後に被害者に引き取られたのですが、療養所へ入るとき、父子は別れたくないため泣き叫んでいました。

物語の中では加害者の本当の殺人の動機は描かれていないため、そこは観る者の想像に任されています。

自分の暗い過去(出生)を知る被害者が突然目の前に現れ、保身のために殺害したという見方もあると思いますが、被害者の「善意」が加害者を追いつめ、殺人に至らせたようにも思えます。

被害者の行為のどれもが善意から出ているものであり、非難すべきことはどこにもないのかもしれません。
唯一、加害者が実父と会うことを拒んだとき、「首に縄をつけてでも引っ張っていってやる!」と言ったことは行き過ぎだったかもしれませんが・・・。

父と別れた幼い子供(加害者)が成人するまで、どんなことを毎日思い、自分の過去とどうやって対峙してきたのかは、本人のみが知りうることです。

でも被害者は「善意」の名のもとに、被害者の心にずかずかと土足で入り込んできたわけです。

映画の最後の部分で、二人の刑事のやりとりがありますが、そこで、

「でも、会いたかったでしょうね」「そりゃそうだろう。でも彼が父に会えるのは、音楽の中だけだったんだ」(会話は不正確かもしれません・・・)

とさり気なく言葉が挿入されています。

自分の中で、ようやく消化しようとしていたものを蒸し返され、これまでの自分の苦しさなどを無視するかのように、会うことを強要されたこと。それがきっかけで、心の中で鬱積していたものが殺意となって現れたこと。

あくまで想像ですが、なんだかそんな気がしました。


砂の器より「宿命」