三日月ノート

日々の出来事を気ままに。

共同訳聖書到着!(歓喜)

2018年12月12日 14時35分00秒 | 宗教

お昼頃、待ちに待った共同訳聖書が到着しました!
先日、ブログにも書いたとおり、31年ぶりの改訂です。


なんと、こんなに薄くなっています!
写真を最初に見た時に、今のものと比べてずいぶん薄いなぁと思ったのですが、続編なしのほうの写真だろうか?と考えていました。

でも、実際にこんなに薄い。
字が若干小さいのと、紙が薄くなったようです。
(追記:初版は特別に薄い紙を使用しているそうです)


それでいて、こんな風に本文中に引照、注が記載されているので、聖書を理解するのにとても便利です。


カバーをはずすとこんな感じ。
ハードカバーなので長持ちしそう。
ちなみに私は紙のカバーは取る派です。


上段:新共同訳の巻末地図
下段:共同訳の巻末地図
巻末の地図もカラーになり、記載も詳しくなっています。

そして気になる中身ですが、細かい表現がかなり変わっています。

共同訳聖書の「序文」にあるとおり、今回の翻訳事業を開始する際に記された「翻訳方針前文」では、今回の翻訳にはスコポス理論(スコポスとは、ギリシャ語で「目的」)を採用し、翻訳の対象・目的を教会の礼拝での使用として進められてきたとのことです。

そのため、底本の文言を忠実に日本語に置き換えるのではなく、自然で読みやすい日本語の表現を採用したとのことです。

そんなわけであちこちパラパラ見てみると、おなじみの「はっきり言っておく」が「よく言っておく」となっています。

あと、結構人気の箇所、ルカの「エマオで現れる」の一節はこんな風に変わりました。

(新共同訳)
ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。
婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。

(共同訳)
ところが、仲間の女たちが私たちを驚かせました。
女たちが朝早く墓へ行きますと、遺体が見当たらないので、戻って来ました。

ここだけ抜き出すとあまりピンと来ないかもしれませんが、聖書独特の表現が、日本語らしくはなったように思います。
婦人→女になったのもそうですが、中風の人→体の麻痺した人、のように、差別と思われる表現も変更したようですね。

翻訳に携わっているかたなら誰もが実感することだと思いますが、ある言語を他の言語に置き換えた時に、ぴったり置き換わる言葉がないというのが翻訳の一つの難しさだと思いますが、<注>には底本の記載、別訳がある場合はそれ、必要な場合は「直訳」も記載されており、これから聖書を読んでみたいと思う人たちにとってはわかりやすく、またこれまで聖書を読んできた人たちには、より深く聖書を理解できる気がします。

私は現在、聖書通読中で、新約は半分くらい、旧約はモーセ五書の民数記まで読んだのですが、この訳でもう一度読んでみようと思います。

聖書協会:共同訳聖書の詳細はこちら

新しい聖書!

2018年12月05日 22時16分00秒 | 宗教
新共同訳の後31年ぶりに共同訳聖書がそろそろ発売されます。
今回はかなり訳に変更が加えられとの事で、今からとても楽しみです。

大きな変更は31年ぶりですが、実はマイナーチェンジはやっているんですよね。
例えば、

現在の「重い皮膚病」という表現は、20年位前は「らい病」という表現を使っていました。


これです。
そして、これが今度は「規定の病」になるそうです。

ユダヤ人たちは、今の旧約聖書のモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)に定められている律法に従って生きていたのですが、ここに重い皮膚病になった人の清めの儀式などが詳細に定められていることから、「規定の病」という記載に変更したそうです。

個人的には重い皮膚病でいいんじゃないの?って思いますが色々と検討した結果なんでしょうね。


あと、「姦通の女」という見出しが、現在では、


「わたしもあなたを罪に定めない」となっています。

これはどうして変えたんでしょうね。
ナマクラ信者の私は情報をキャッチし損なっているかもしれません。

新しい聖書は今月中旬くらいに入荷するらしいのですが、ちょうど聖書通読をしているのでとても楽しみです。
早く読み比べしたい!

修道院の生活

2018年07月09日 12時06分45秒 | 宗教
20年ほど前になりますが、カトリックの私は「修道会」に入会することを真剣に考えていました。

修道会には大きく「活動会」と「観想会」とに分けられるのですが、簡単に言うと、前者は学校、病院、社会福祉施設などを経営している修道会で、後者は「トラピスト」(女子はトラピスチヌ)のような外部とは遮断された囲いの中で生活し、祈りと働くことによって神に仕えながら生活する修道会です。

修道会に入会するには、司祭(神父)になるのと同様、それが神からの呼びかけ(召命)であるかを慎重に識別し、入会後も見習い期間を経て、初誓願、10年ほど経って最終誓願となり、ここではじめて一生、修道者として生きることが決まります。
最終誓願まではいつでも退会することができ、それは「挫折」ではなく、別のところにその人の召命があったと考えます。

カトリックの信徒が修道会に入会を考えたとき、まず初めに自分が所属する教会の主任司祭に相談するのが一般的で、司祭との定期的な面談を受けながら、実際に自分が心惹かれる修道会にコンタクトを取って、活動会であれば一緒に活動したり、観想会であれば修道院長と面会を通じて、本当にそこに「呼ばれて」いるかを祈りの中で感じ取っていくのです。

私の場合、最初は活動会だと思い、某修道会で週末に一緒に活動に参加していましたが、いつしか観想会に惹かれるようになり、東京調布深大寺にある「東京女子跣足カルメル会」に通い始めました。

今は修道院も新しく建て直されたようですが、その頃は築30年以上経った古い建物でした。

カルメル会はカトリックの修道会の中でも最も質素で厳しい戒律を持つことで知られる会で、冬でも素足(跣足)で過ごしている会です。

月1回のペースで院長と面談し、その際には、草むしり(この時はまだ中に入れないので塀の中の、建物の外庭)をしたり手作業などをしたりして、会の生活の一部を体験する期間が1年ほど続きました。

そしてある冬の日に、「仮入会」となり、修道院の中に招き入れていただき、生活が始まりました。
結局のところ、あっという間に出てきたのですが、それはその生活が嫌だったわけでも、そこにいたくなかったわけでもなく、ただ単に「ここじゃない」と思ったからでした。

ちなみに建物ですが、昔の広い木造平屋建で、歩くとギシギシ、所々雨漏りする廊下に、壁はしっくいでした。
一人一人に四畳半程度の部屋が割り当てられ、そこには小さな机とベッドがあります。

廊下は慣れないと迷路のようで、皆で集まって手作業をする部屋があったり、中庭には洗濯物を干してあったり。

お風呂は(確か)毎日ではなく、入るときもバケツ1杯の熱湯を浴室に持って行き、それを水で薄めながら身体を洗う感じです。

食事もほぼ自給自足で、食器などもなるべく洗剤を使わずに水の使用も最小限。「清貧」を実践しようとしているのがわかりました。

今でもあの生活に対して憧れはあります。が、神は私に別の生き方を望まれていたようでした。

思い起こせばあの頃は、ボランティアや人のためになる仕事をしたいなどと思っていたはずなのですが、あれから年月が経ち、すっかり人間嫌いになってしまい(笑)、別人のように生きています。

今月22日、お世話になった司祭が指導する祈りの会に参加してきます。
普段はなかなか静かな時間を持てないので、ちょっくら行って、自分の愚かさをじっくり再確認してきます。

ルーツの力

2018年01月14日 11時20分24秒 | 宗教

昨日、白百合女子大学で開催されたカトリック宗教講座へ参加してきました。

目的は、演題もさることながら、その昔、とてもお世話になった司祭が講師だったので・・・。
お元気そうで、語り口も昔と変わらず、懐かしいような嬉しいような気持ちで聞いていました。

演題は新渡戸稲造の生涯に沿って、現代の日本社会の抱える問題について、新渡戸氏の著書「Bishido, the soul of Japan」と教皇フランシスコの言葉を引用しながら語られました。

特に昨年の12月に上智大学の学生と教皇とをビデオ中継で結んだ対話での多くの事柄のうち、以下のようなやりとりを紹介されました。

学生:今日の若者に対する心配と希望について
教皇:若者が文化や、歴史、家族、人類のルーツや記憶を忘れ、根の無い成長できない人間となることを憂慮している。若者は常に動きまわり目的に向かって歩んでいるが、ルーツにしっかりとつながることで現状の課題と向かい合うことができるだろう。

学生:日本の印象
教皇:日本人は理想や深い宗教性を持ち、働き者であると同時に、大変苦しんだ民族だ。日本の過度な競争社会やとどまることのない消費主義、実力主義が、この国が本来持っている大きな力と理想を害し削いでしまう恐れがあるだろう。

講座では、自分が意識している部分だけではなく、意識しない隠れているもの(ここではルーツという言葉が使われていましたが)に目を向ける、気付くことなくしては本当の力は出てこないのではないか、と話されました。

自分が生まれ育った家庭、幼少期の環境、先祖から受け継いでいるものなど、確かに深く知ろうとする事は少ない気がします。

他方、他国の人たちと話をする機会があると、自分たちが背負っている歴史上の責任、現在直面している問題など、場当たり的ではなく血肉となっている思考から発生している意見だなぁと感じることが多くあります。

人それぞれ考え方や持っている意見は多様だと思います。
しかし、それが根拠のない上辺だけのものだとしたら、それは未来に向けて力強く成長していく「力」にはなり得ないのでしょう。

個人としての人生をどう生きるかということを見いだすために自分自身と向き合うこと、この社会をよりよくしていくために過去の歴史を知ること。

この気持ちに気付いているかどうかだけでも、未来は変わっていくのだろうな、そんなことを感じました。





サヨナラ教会、復活の日まで

2017年12月29日 09時19分48秒 | 宗教
離婚&再婚に関するカトリック教会の教義については過去ブログに記載したとおりで、先日、主任司祭とは、教会を転籍するときに名字をどうすべきか話しをしていたところでした。
(過去の記事はコチラ→(その1)→(その2)→(その3

司祭との面談後、色々と考えた末、私は教会とは距離を置くことにしました。
カトリックの教義からすると、私の方こそ破門に値するのかもしれませんが。

そして、次回の面談のキャンセルをお願いするため、司祭へは手紙を書いて送ることにしました。
長文ですが、こんな感じです。

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お伺いしました際には、A教会から自宅最寄りの教会(B教会)への移籍に伴って、離婚、再婚による氏名の変更の取扱い(旧姓:C、婚姻時:D、現在:E)についてお調べいただけるようお願いしているところでしたが、あれから諸々検討いたしまして、教会の籍はそのままにしておきたくご連絡致しました。

現状、カトリック教会における婚姻が有効であり、現在、再婚しているという状況から、カトリック教会の教義に照らし、聖体拝領等の秘跡にあずかることはできないという事は厳然たる事実であり、それを知ってしまった以上、知らなかった事にはできないと思っています。

教会としては、それでも教会共同体へ参加する意義はあるという考えのようですが、現実としてミサに参加した際に、聖体拝領せずに黙って座っているということがどういう事を引き起こすか申し上げるまでもないと思います。

また、そのような状況であり今後もその状況が変わる事がない以上、私にとって教会に行く事には何ら意味を見いだせないというのが結論です。

もちろん「教会に行く義務がある」という考えがあるのかもしれませんが、それについては、私はあえてNoという立場を取らせていただきます。

教会がこれまで一貫して守ってきた掟に対して私は何も申し上げることはありませんし、神の御旨はそのような形で示されることと理解しています。
また、本件のようなケースに対し、教会は非常に難しい立場であることもよくわかります。

このような中で個人としてどのような態度を取ればいいのかという「正解」は先ほど申し上げたとおり、教会に参加し続けるということなのかもしれません。
しかしそれは当人にとって決して赦しの場ではありません。
むしろ決してこの世では赦されることがないことを実感しに行く場となるのではないでしょうか。

私は今の状況でも十分神の恵みをいただいておりますし、最後まで神に希望を置いています。神の憐れみを疑うことはできません。

「神は生かすかたです」という言葉は、私が以前修道生活を考え霊的指導を受けていたときに、某修道会にいらっしゃった神父様からいただいた言葉です。
そのお言葉のとおり、教会に行き、秘跡にあずかることは神の恵みの一つであって、恵みは決してそれだけにとどまらず、柵の外でウロウロしている羊に対しても柵の中の羊と同じように日々の恵みを与えてくれることでしょう。

このようなことから、一方的なお話で大変申し訳ありませんが、次回の面談のお約束はキャンセルさせていただけると有り難く存じます。
寒い日が続きますが、心身共にご自愛ください。

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聖書の中で、イエスがどのようなことを一貫して言っておられたのか。

徴税人、売春婦、罪人と一緒に食事をし、それを非難する人たちに厳しい言葉を向けていたイエスは、今この時代におられたなら何と言うでしょう。

教会の掟を守れる人だけが秘跡にあずかれるとするなら、誰が秘跡にあずかれるのでしょうか。正しい人はどこにいるのでしょうか。

「私は秘跡にあずかる資格がある」と思っている人こそ、福音書の中でイエスが非難していた人々ではなかったでしょうか。

私が言える立場ではないですが(笑)