三日月ノート

日々の出来事を気ままに。

献杯

2019年08月15日 15時11分03秒 | 思い


うんざりするようなニュースばかりが流れてくる。
なんというか「断末魔の叫び」という感じ。

ふとある人を思い出した。
某社で一緒だった60歳過ぎのKさん。
話題豊富で思いやりのある人だった。
一緒にランチを取ったり皆で飲みに行ったりもした。

私が退職した後、ある日、風の噂で自死したと聞いた。
事が事なだけにあまり詳しい話も聞けなかったのだけれど、病気を苦にしてという理由が一番もっともらしく言われていた気がする。本当のところはわからない。

Kさんのことはこれまでもふと思い出すことはあった。
けれど今日はいつもよりも強く「会いたいなぁ」と思ってしまった。

お盆だから?

キリスト教、特にカトリックでは自殺は大罪で、自殺した人は葬儀ミサも挙げてもらえなかった。
自殺するほど苦しんだ本人に対してそれはないだろうということや、自殺者が増えているという社会背景もあるからか、今では「大罪」などと、死人に鞭打つようなことはなくなっているようだけど。

「どうして自殺しちゃいけないんですか?」という子どもの質問に対し、大人が満足する答えを提示できないのを見たことがある。
実際、私も以前は「自分で自分の命を自由にして何が悪いのだろう?」と考えたこともある。

ただこれまでの人生を振り返って、本当に自殺をしたいと思ったときの事を思い出すと、その答えがわかったような気がした。

自殺は残された者の心に癒える事のない心の傷を残す。

死にたくなるほどつらくて、死のうと思ったとき、何を考えたか。
「ここで手首を切って血の海になったら、母はどんな思いをするだろうか」
「第一発見者に対しひどい思いをさせてしまうだろう」
そんな事だった気がする。

「私」という存在は誰もが自分自身のために生きているようで、実は自分の思いにかかわらず他者のための自分の命なのかもしれない。

「神様に与えられた命だから自殺はいけない」などと言われても多分答えにはならないだろう。

つい数日前「天使から、苦しまずにいつでも死ねる薬があったら、あなたはもらいますか?」という質問が流れてきていた。

苦しまずに死にたいし、長生きはしなくない。
苦しんで死ぬのは嫌だし、痴呆症で他人に迷惑をかけて長生きするなんてもっとイヤダ。
そう思ってはいるけれど、いざ、この問いかけに向き合ったとき、自分は受け取らないだろうと思った。

もちろん今、この状態だからそう言えるのかもしれない。
でも、まがりなりにも神を信じる者としては、(正気のうちは)自分からこの命を終わらせることはしないだろうなと思った。

意地なのかな?
なんというか、人生に対する「責任」と言ったらいいのか。
捨ててはいけない、背負うべきものというものはある気がする。

なんだか大幅に話しが逸れてしまった。

Kさんとはもっと一緒に飲みたかったな。
私がそっちに行ったら、またぜひ飲みましょう。

裁判員裁判は機能しているのか?

2018年03月23日 14時20分54秒 | 思い
既にSNSでも話題になっていますが・・・。

「13歳のときから義父による性的虐待を受け続け、産んだ赤ちゃんに手をかけるまで追い込まれた女性に実刑判決」

新潟地裁で開かれた裁判員裁判の判決です。

詳細はリンク先のニュースを参照していただきたいのですが、心が痛むという言葉では片付けられないほどの内容です。

リンク先では事件の内容と、判決の内容にしか言及されていませんが、裁判員と裁判官がどのような評議を経てこの判決に至ったのかが非常に気になるところです。

今回の事件であらためて「裁判員制度」について調べてみたのですが、通常、裁判官3名と裁判員6名で評議が行われるそうです。
また、最終的な判決には必ず裁判官1人以上が多数意見に賛成していることが必要だそうです。

つまり今回のケースでは、裁判員の多数が実刑判決を望み、それを1名以上の裁判官が支持したということになるでしょう。

裁判員裁判の一つの目的とて、「法律の専門家ではない裁判員の経験、感覚を裁判に生かす」というものがありますが、確かにそれは必要なことでしょう。

しかし私はこの「裁判員制度」自体が、日本人には馴染まない(というよりも、今の段階の日本人には無理な)制度ではないかと思うのです。

裁判員制度についてのサイトでは、「評議において裁判官と対等の立場で議論をし、お互いに自分の意見を述べるとともに、お互いの意見をよく聞いて、議論を尽くして、被告人が有罪か無罪か、有罪の場合はどのような刑にするかを決める」のがその役割だそうですが、これまで私が経験した会社員生活の中で、

「対等の立場で議論をし、お互いに自分の意見を述べるとともに、お互いの意見をよく聞いて、議論を尽くす」ということを、ミーティングでしっかりできる人(日本人)をほとんど見たことがありません。

大手外資系企業で地位や男女関係なく自由に意見を言える雰囲気があっても、他人と違った意見を言うのを躊躇したり、忖度したり、まぁ要するに目立つことをなるべく避けようとする人がほとんどでした。

SNSでは強気で発言する人も、十数名が参加するミーティングで多数とは異なる意見をハッキリと主張できる人はどのくらいいるでしょうか。

まして裁判員裁判のように、他人の人生に大きな影響を与える場において、そういった人が「裁判官と対等の立場で議論」することなどできるのでしょうか?

声の大きい人の意見に従ったり、多数意見に流されたり、裁判官のちょっとした言葉から忖度して意見を述べたり、となる恐れはないのでしょうか?

そもそも通常の社会においても「議論」ができず、反対意見を自分に対する「否定」と捉えて感情的になったり、理論的に物事を考え意見を主張することが苦手な日本人に、理想とする裁判員制度を運用することはできるのでしょうか。

裁判員制度のウェブサイトには「チームの全員が一体となって、真剣に議論した結果であれば、妥当な結論に至ることができるはずです。」と書いてありましたが、このような結果を得るためには、例え自分以外の人間が、自分とは異なる意見を持っていたとしても、自分の意見をしっかりと伝えることができる、成熟した人間が参加する必要があるのではないでしょうか。

今回の判決には多くの批判が集まっていますが、他人に流されず忖度なしで多数決によってこのような結果が導き出されたのであれば、それはそれで言い様もない冷たさを感じますし、そうではなく、少なくとも執行猶予付きが妥当ではないかと思っていても、それが言い出せなかった人がいるとするなら、今後もこのような事が繰り返されるのではないでしょうか。

「いただきます」

2018年01月20日 16時55分52秒 | 思い
私はヴィーガンでも菜食主義者でもありませんので何でも食べます。

もちろん、ポリシーとしてヴィーガンや菜食主義は尊重していますが、私がなろうとは思っていません。
(あまりに酷い映像で「食べられなくなる」ことはあるかもしれませんが・・・)

ずいぶん前になりますが、あるテレビ番組で小学生の子供たちが実際に鳥や豚を育てて、それを最後に食べるかどうか考えさせ選択をさせるという体験学習の様子が放映されていました。

「それまで愛情をかけて育てた鳥や豚を、自分は殺して食べるのか。」

子供にとっては大きすぎる課題のようにも思います。
でも子供たちは一生懸命それに真剣に向き合っていました。

そして、最後に泣きながら「食べる」と決めた子供たち。
(食べないと言った子もいたかもしれません。なにぶんかなり前の番組なので忘れてしまいました。)

本来「命をいただく」ということはこれほど重いことであるはずなのに、なかなかそれを実感できないまま私たちは過ごしています。

食べるたびに悲しくなっていては生きていけませんが、この子供たちが感じた心の痛みを、大人も忘れちゃいけないんだろうなと思うのです。


デスクの下のホットカーペットが暖かいということを発見したリンとまくる。

ホットカーペットに直接寝ると、ねこにはちょっと温度が高いかな?と思い、膝掛けを長くたらしてその上に座らせています。

私の足の置き場所が今の大きな課題です。


定番の毛繕い。


そしてまくるのガブでリンが逃走。
結局1人になってしまうんですよね・・・。

「感動をありがとう」って?

2014年02月24日 09時54分15秒 | 思い
ソチオリンピックの選手の活躍もそうですし、色んな場面で最近「感動をありがとう」という言葉を見かけるのですが、どうしてもその言葉に違和感がありました。

ありがとうと感謝すること自体は素晴らしいと思います。
また、選手のパフォーマンスを見て感動したこともウソじゃない。

でも、その二つが私の中でどうしても結びつかないんですよね。

日本の文化では、「いただきます」というように、相手が見えなくても、相手が自分個人を意識していなくても、感謝するという精神性があると思いますが、それとも何か違う気がします。

ここ数日、時々このことを自分の中で蒸し返して考えてるのですが、答えは見つからず。

一つだけ、もしかして。。。と思うのは、感動することに飢えてる人たちが、何か感動できそうなものを探してて、上手いこと感動できるものに出会えたときに「ありがとう!」って言ってるかのような。

どこか自分が、多くの人たちが発する「ありがとう!」のウラに、感動するということに対する飢餓感を感じてしまうからかも知れません。

それが、スポーツをする側のストイックさ、純粋さと相容れないものを感じるからなのかなぁ。

もらい泣きして、ありがとうってあまり聞かないですしね。

何か変なの。

「縁がある」ということ

2013年09月01日 19時24分30秒 | 思い
私は仏教徒ではありませんが、「縁」というものはやはりあるんだろうなぁと感じます。

職場にしても、日々の中で巡り合う人にしても。

自分で選んでいるようでいて、実はそうでないというか。

会いたいと思っている人に、機会がなくてなかなか会えなかったり、偶然数年来の知人とバッタリ出会ったり。

そこには不思議な力が働いているように思います。

そしてまた、人との「つながりの深さ」というのは、一緒にいた年月の長短とはあまり関係がないようにも思います。

長い年月、友達でい続けるのは、もちろんその人にとって大切な宝物だと思います。

でも私は、それ以上に、その時期その時期で親しいつながりを持つ友人は変わっていいんじゃないかなとも思っています。

友人であり続けるということは、なんというか、自分と相手との世界?生きるステージ?が同じか近くないと続かないと思うからです。

自分も変化し、相手も変化する中で、徐々に距離が開いていったり、再び親しくなったり、というのはアリだと思いますし、自然なことだと思います。

人との関係においては、自分の我を通しても上手くいかないことが多いですから。

何かの集まりにしてもそうだと思います。
来る人は来るし、去っていく人は去っていく。

環境が許し、思いが一致することが大事であって、無理して「続けよう」とか「人を集めよう」とかしても空回りするだけだとも思います。


明日からは新しい職場で、また新しい出会いがあります。

ワクワクも、期待もあまりしていません。

まずは仕事をキッチリやることだけを考えます。



自転車通勤のときにお世話になった帽子を洗濯しました。
そういえば以前、パン屋さんの帽子みたいと言われました。。。。