浅井久仁臣 グラフィティ         TOP>>http://www.asaikuniomi.com

日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

ギョーザ報道に中国で反論の声

2008-02-07 17:55:29 | Weblog
日本のメディアの毒入り冷凍ギョーザ事件に関するスクラム報道が、インターネットの中国語サイトで槍玉に挙げられている。

 書き込みの多くは、メディア報道が「意図的」だとし、「中国製品のイメージを落とすことで急成長してきた中国経済の抑えつけをしようとする意図をうかがわせる」という見方に基づいている。

 同事件を日本の陰謀とする反日感情丸出しの書き込みはここ24時間で急増している。

 書き込みで目立つのは、事件は日本サイドで起きたものであり、中国を貶めるだけでなく、中国製品の排斥を目的とする日本の政治的陰謀だ、と反日感情をあらわにしたものだ。

 このような書き込みは、中国側検査当局が記者会見で「検査ではメタミドホスは検出されなかった」と発表した後に増えている。

 さらに、時事評論家が新聞各紙に「日本側の政治的陰謀説」とする記事を発表したことで加速した。それは、輸入元の親会社である日本たばこ産業の株価が事件の発表前に急落した点に着目したもので、「犯人は日本人」であるとし「高度な知能犯」と結論付けている。

 このまま放置すれば、反日感情が一部のネット愛用者の世界から一般大衆に広がる恐れもある。福田首相は、政府対応を反省する旨の発言を衆議院予算委員会でしたが、メディア報道についても触れるべきであったのではなかろうか。

私の視点 “ギョーザ報道”から考える日中関係

2008-02-06 10:57:51 | Weblog
 ギョーザ、ギョーザと国を挙げての大騒ぎ。神輿を担いでいるのは、今回もマスコミである。

 確かに、一人の命が失われかねない事態を招いたのだから「大したことはない」というつもりはない。だが、マスコミの報道姿勢は、スクラム報道の典型。毒物混入の原因が特定されたわけでもないのに、「中国の農産物や製品は危ない、あぶない」と断定的に大合唱。ヒステリックに報道する様は、醜悪でさえある。ジャーナリストたちは客観的な立場を貫かねばならないのに、感情丸出しだ。

 そんな過熱報道を見ていると、ジャーナリズムのイロハも知らんのかねと言いたくもなる。

 確かに、報道で知る限りでは、中国の農業生産や食品加工の現場は、一般的に言って安全性への配慮に欠けていることが少なくない。従事者の知識も充分ではないことがうかがえる。だから、中国で毒物が混入した可能性は低いとは言えない。だが、だからといって、マスコミが「中国が犯人だ!」とこの段階で決め付けて良いことにはならないはずだ。それは、これまでにサリン事件や多くの冤罪事件が与えてくれた教訓からもジャーナリストが学んできたことだ。

 こういった事件を考える場合、生産現場を疑うと同時に、流通経路の問題点を調べる必要がある。

 日本のマスコミはそのあたりに冷静さを欠き、事件発生直後は、中国の農民が農薬への知識を欠き、農薬を乱用していると批判リポートを流し続けた。ところが、原因が農産物そのものに見出せないと、今度は加工現場である食品工場に原因があったはずと、大騒ぎをして工場に殺到した。その根底には、「どうせ中国の工場のやることだ。汚い環境で製造しているから毒物も混入するんだ」との蔑む意識が見え隠れした。

 ところが、意外や意外。工場の衛生設備が予想以上にレヴェルが高いと知ると、今度は工場にあったという労働争議に目を向けている。

 スクラム報道とは、まとまった人数の人たちが片寄せあってあるものに突進する姿から出てきた言葉だが、今回のこのような場当たり的な報道は、ジャーナリスト養成講座の教科書に出てくる「スクラム報道」そのものだ。

 ここで一度冷静になろうではないか。そうでないと、今の流れがそのまま続けば、日中関係を損なうことにつながりかねない。とても危険な状態だ。

 このような事件を取材する場合、私であれば、まず、問題点をいくつかに分けることから始める。幾つかの柱を立てたら、そこにこれまでの類似した事件の教訓を落とし込んでいき、さらにあらゆる可能性を想起して重ねていくのだ。

 そうすると、浮かび上がってくる問題点や可能性がいくつかある。報道する側もそれらを一つひとつ調べ上げていけば、今のようなくだらない動きにはならないはずだ。

 毒物混入の可能性についても、めったやたらに思い付きで様々なケイスを報じるのではなく、今では「薬物指紋」というものがある。薬物指紋と言うのは、人間の指紋と同じで、薬物の製造場所などのプロファイリングを行えば、微量の元素、不純物が分析され、産地、メーカーが特定できるというものだが、そういう方法は、覚せい剤の取り締まりに関わった記者であったら知っているはずだ。また、和歌山のカレー毒物混入事件の時にも、薬物指紋が強力な証拠となった。

 繰り返しになるが、マスコミがやってはならないのは、感情的な報道をして国民を扇動することだ。それを見た国民は「世論」という御旗を掲げて、魚群のように一定方向に突進してしまう。

 事件の原因を探るのと同時に、ジャーナリストが心がけねばならないのは、「事の真相」を伝えることだ。つまり、その事件の根底にある問題点を取り上げて、事件の再発防止や歪んだ実態を正すことにつなげる橋渡し役になるのだ。

 今のマスコミを見ていると、そういう客観報道とは対極に位置する主観報道が主流だ。このようなヒステリックな報道をすればどのようなことになるのか。

 それは、今の日本を見れば分かる。今回の一大事の責任を政府も消費者も中国側にだけ押し付けて、被害者ヅラして負け犬のようにキャンキャンと鳴き叫んでいる。

 「被害者じゃない?冗談言うなよ。日本人は被害者そのものではないか。浅井は中国の味方をするのか」などとどこかから聞こえてきそうだが、冷静になって考えていただきたい。

 確かに今回被害を受けたのは日本人だ。だが、ここで私は声を大きくして疑問を呈するのだが、それでは、我々日本人は、中国の農作物を安全で信頼するべきに足ると判断していたとでも言うのか。現実はその逆で、これまでに中国の農作物が危険だと言い続けてきたではないか。危険を知りながら、具体的な方策を講じることなく安いからと中国製品を大量に購入し続けてきたのではないのか。

 ただ、私は中国で生産される食料が全て危ないとは思わない。それは、食文化を大事にする中国人が自分たちの口に入れる物をそんなにぞんざいにしているとは信じられないからだ。マスコミ報道されているのは、一部の生産現場ではないかと思っている。だから、冷静に中国側に協力を呼びかければ、必ずや応じてくるはずだ。北京オリンピックを前にして、中国も余裕を失い、過度に神経質になっている面が見られる。そこへ過熱報道で中国叩きをすれば、当然のことながら硬直した態度になってしまう。

 日本が今しなければならないのは、中国を追い込むことではない。中国が今回の事件で国際的に失った面子や冷静さを取り戻すための協力的姿勢を示すことだ。将来の日中関係を良くする為にも、こういった時こそ温かい手を差し伸べる必要がある。

 批判されている中国の姿を見ていると、かつての日本がそこに重なってくる。日本の農村でも以前は生産物を農薬漬けにしていた現場があった。また、森永砒素ミルク、カネミ油症事件のような毒物混入事件もあった。その頃、それを見聞きした西側諸国の人たちは、日本人に対して偏見に満ちた視線を向けていた。今まさに我々が中国人に向けている差別的な視線と基本的に何ら変らないものだ。

 戦後復興に沸き、高度経済成長に浮かれている間に、汚染も我々の環境を蝕んでいた。農薬だけでなく、大気汚染や工場からの排水などによる複合的な環境汚染が我々日本人の生活を破壊していることに気付くまでに20年以上かかり、それから長い時間をかけて対策を講じるようになり、ここへ来てようやく少しずつだが改善されるようになった。

 だが、不況が長引くと、営利優先に走る企業は時代の流れに逆行、消費者を欺いてまでして企業防衛に走った。一連の偽装問題はその象徴だ。今回のJTフーズ(ギョーザの輸入元)も、その初期対応を見ていると、同じそしりは免れない。

 マスコミはこれまで、「中国産品は危ない」という報道をしたが、「ならばどうしたらいいのか」という世論作りに関わってこなかった。

 消費者である我々も「危ない食品は買わない」という消極的な姿勢ではなく、業界や政府機関に働きかけるくらいの積極的なかかわりをしなければならなかったのではないか。たとえ中国産の農産物を買わなくても、ファミリー・レストランなどでは、かわいい子供たちにたっぷりと“危ない食品”を満喫させているのだから。

 もちろん今回の事件の最大の責任は、危機意識に欠け、危機管理をしてこなかった政府と関連業者にある。食の安全を守ることは彼らが何を置いても最優先で取り組むべきことのはず。それをなんら具体的な策を講じることなく放置して来たのは責任放棄といわれても仕方がない。

 今からでも遅くはない。直ちに、国家レヴェルでこの問題を改善する対策ティームを作り、取り掛かるべきだ。今回の事件の原因の究明は当然のことだが、それと同時進行で日中協力態勢の構築を図るべきだと考える。

 食料汚染の“先輩”としての経験とそこから生み出された技術は、中国に大きな改善と進歩をもたらすであろう。

 食料自給率が4割を切っている現状を考えれば、これからもますます中国からの農産物に頼らざるを得ないことは動かしがたい事実だ。ならば、今からでも遅くはない。いや、今こそ中国と手を携えて、安全な食作りに向けて取り組む仕組みを作るべく政府は大胆に動くべきだ。


筆者注:
この記事を発表した後に、
「これからもますます中国からの農産物に頼らざるを得ないことは動かしがたい事実だ」という部分に対して、

「変えていかないと、と個人的には思っています」
との声が読者の一人から上がりました。つまり、食糧を他国に頼るのではなく、「目に見えるところで作らねば」ということですが、

「食料自給率が4割を切っている現状を考えれば」と前提条件を書いている様に、私は現状を良しとして書いているわけではありません。現状では、日本の農村社会は崩壊状態になっており、自給率の急速な回復どころか、現状維持さえ難しいと思っています。日本農業の再生や農村の再構築の可能性については、又の機会に触れたいと考えています。


火鉢のある生活

2008-02-05 02:13:02 | Weblog
 友人のヨッチーさんから火鉢が届けられた。

 どうやら、直子が「火鉢が欲しい」とのたもうていたのを真面目で情に篤いヨッチーさんが聞き漏らすことなく、実家から借りてきてくれたようだ。

  日曜日に庭で落ち葉焚きをして灰作りをする予定であった(筆者注:火鉢用の灰作りを調べると、くぬぎ材を使ったりしなければならない事が分かりました。出来合いのもので我慢します)が、生憎の降雪。あきらめた。

 火鉢と言えば、私にとっての思い出は祖父の長火鉢。頑固じいさんは、いつも長火鉢に肘をつき、家の中を睥睨(へいげい)、眼を光らせていた。

 祖父の大好物はモチであった。ヨメにモチをつかせては長火鉢の引き出しに仕舞い込み、一人うまそうに頬張っていた。孫の私がいくら欲しがってもくれることはなかった。その時、私は子供心に、おいしいものを独り占めにしまいと誓った。

 私は無類の暴れん坊でのべつ幕なしに走り回っており、祖父はそんな私を嫌った。

 まだ4,5歳の頃だったと記憶しているが、階段落ちをしたことがある。それも高いところからの落下だ。

 「うるさい!」
 すごい音を立てて落ちた私に癇癪(かんしゃく)持ちの祖父からの怒声が飛んだ。

 祖父への恐れが身体の痛みを超えた。歯を食いしばって泣くまいとこらえた。長火鉢の前で立ち上がり、私に憤慨する祖父の姿は鬼のようであった。その時も火鉢の中にある金網の上にはモチが焼かれていた。

 小学生になって父親の実家を離れた。子供心に祖父から離れられるのが嬉しかった。

 朝鮮特需で日本経済が急成長をするようになり、多くの家に石油ストーブが置かれるようになっていた。だが、貧乏な我が家には長い間、コタツと火鉢しかなかった。

 3歳上の兄と家の中で相撲を取るのが楽しみの一つであった私はある時、兄を投げ飛ばした。そう、相撲が得意だったのだ。強烈な投げ技に兄は勢い良く火鉢に突進、うなったまましばらく起き上がらなかった。覗き込むと、額には特大のコブができていた。私の記憶では、火鉢にヒビが入ってしまったように記憶しているのだが、今ひとつその思い出には自信がない。だが、今となってはその兄も他界しており、記憶を確かめようもない。 

 祖父は程なくして急死した。死因は、モチを喉に詰まらせての窒息死であった。様々な嫌な思い出に心を支配されていた私には、祖父の葬式に立ち会っても悲しみがこみ上げてくることはなかった。

 火鉢の周りで戯れ合った兄も15年前、白血病で他界した。祖父の死とは違い、兄の死は私にはとても大きく、私は焼き場で号泣した。

 火鉢には他にも思い出がこめられている。小学生の頃通っていた富田病院の待合室で大人たちが火鉢を囲みながら話していた噂話を、火鉢に手をかざしてその輪に入りながら興味深く聞いていた。

 「息子の勲さんは、医学部に行くとうそを言って慶應で音楽を勉強されておったそうだよ」

 患者たちは、メルボルン・オリンピックの女子体操の伴奏音楽を作曲するなど活躍を始めていた、富田病院の長男勲についての噂話をよくしていた。田舎町の出身者が東京で活躍する姿は、少年Aにとってはとても刺激的であった。富田さんは後に、世界のシンセサイザー音楽の先駆者として、特にアメリカで有名になった。

 火鉢にはそんな様々な思い出がある。もちろんヨッチーさんから貸していただいた火鉢にはそんな思い出は詰められていないが、何か心が温まるような気がしてならない。灰が入り、炭火が灯されたら画像を紹介しようと思っている。楽しみにお待ちいただきたい。

マスコミへの抗議のススメ

2008-02-04 11:40:57 | Weblog
朝日新聞が発行する週刊誌『AERA』。その車内中吊り(新聞)広告の“顔”とも言えるのが、一行の風刺ダジャレ。

 時に、話題のニュースを上手く引っ掛けてこちらの笑いを誘う秀逸なものがある。これまでで私が一番気に入ったのは、「サダム君は持ち物検査が大嫌い」(仮名遣い、又はてにおはに違いがあるかも)。

 これは、対イラク戦争が始まる前、欧米諸国、特にアメリカからの武器査察要求を頑なに拒否し続けていた、イラクの故サッダーム・フセイン元大統領と、学校教育の現場でその是非について論議を呼んでいた持ち物検査とをかけたものだ。

 こういった皮肉の効いたものは、恐らく満員電車で自分の人生に倦怠感を抱いてしかめっ面をしているサラリーマン諸氏をも一瞬にせよ穏やかな気持ちにさせる効果はあるだろう。

 だが、今週号の「中国産は、やめとコープ」はいけない。

 私は、戦争特派員として、また防災ヴォランティアとして、命に関わる活動をしてきている。だから、防犯や防災については「遊びの道具」にしてはならないと考えている。他人の命を軽んじたり、もてあそぶような輩は許せないのだ。特に、今回の場合、重体になった被害者もいたことを考えれば、また、家族のことを考えれば、このような“お遊び”は決して許されるものではない。

 今朝の新聞広告を見た私は、早速AERAに抗議の電話を入れた。

 電話口に出た女性のスタッフは、私の説明に、口では「御説ごもっとも」という応え方をしたが、その言葉の裏には、「朝からこんなことで」という気持ちがこめられていた。

 それは、電話の切り方にも現れていた。私は気付かなかったのだが、近くにいた妻が、「向こうが先に(電話を)切ったよね」と言ったのだ。

 そんな、マスコミ相手に抗議しても無駄だよ、とこれをお読みの方たちは思われるかもしれない。実際、多くの人が、マスコミを相手にしても自分たちは何も出来ないと考えている。

 だが、ギョーカイ人間の私から言わせてもらうと、それは間違っている。マスコミにとって市民からの抗議は意外や意外、気になるものなのだ。朝日新聞本紙への抗議について言うと、記事を書いた本人と話すことはできないが、必ず窓口から記者に抗議の内容が伝えられるシステムが出来ているとのこと。

 TV局を例にとると、番組中、又は放映直後に、短時間に10本を超える抗議電話が来るだけで、現場には「ん?」という空気が流れることが多い。それが、数十本鳴れば、緊張した面持ちになる。100本を超えたら緊急事態だ。

 TVであれば、視聴率が10%であれば、単純に言うと、一千万人が観ている計算になる。新聞では、讀賣や朝日を購読する数が一千万前後だ。

 そこから考えると、100という数字は、かなり少ないものだ。「どうせ、マスコミなんか」と諦めず、“たった”100人が行動しただけでマスコミの編集に影響が与えられる可能性があるのだから、「この番組(記事)、おかしいのじゃない?」と思ったら皆さんも実行してみたらどうだろう。