須賀 敦子 さん ( 1929年兵庫県生まれ - 1998年 ) の本は、文庫本で出ているものは、ほとんど、読んできました。
中でも、とりわけ、この忘れっぽい、わたしが、今も、覚えていて、
いつか、ブログに書こう、いや、書かなければ、と思っていた、とても、印象深い、言葉があります。
それは、
『 世界を よこに つなげる 思想 』
という、「 本に読まれて 」 ( 1998年9月 刊行 ) という、須賀さんの書評集に、出てくる、
シモーヌ ・ ヴェイユについて、書かれた一節に、出てくる言葉です。
“ 世界が よこに つながる ” ことが、いかに、大事なことか、ということに、
この、須賀さんの文章を、読んで、はじめて、気付かされました。
宮沢 賢治 と ヴェイユ が、重なるところ、など、もう、すでに、つながっていたのだ、
と思うと、ひょっとしたら、わたしが、気がつかないでいるだけで、世界のあちらこちらで、
実は、みな、つながっているのかもしれない。
何かに、目をくらまされて、大事なことに、気がつかないことのないように、しっかりと、目を覚ましていなければ、と思う。
そして、 賢治 や ヴェイユ が、書き遺したことは、決して、ただの理想でも、なんでもなく、まぎれもない真実なのだ。
子供時代を、戦火の中で、生き抜いた、 須賀さん は、わたしの父と、ほとんど、同世代です。
それまでは、何かと、忙しく、疎遠がちだった、父と、3.11 以降、話しをする機会が、増えました。
父が、どこで、生まれ、どのように、育ってきたか、今まで、まったく、関心がなかったのに、
なぜか、急に、知りたくなって ( わたしは、そのことについて、何一つ、知らなかった ) 、
なかなか、戦時中のことについて、話したがらない父を、なかば、説得するかたちで、少しずつ、知ることになりました。
父の幼少時代は、 須賀さん のいう、 「 軍事政権のいうなりだった 」 、というよりは、むしろ、
完全な、軍国主義少年であった、という事実に、わたしは、言葉を失い、愕然としました。
だからこそ ( いくつかの幸運もあって ) 、父は、生き残って、日本に、帰ることができた、ということを、
父は、いまだに、少しも、後悔することなく、「 ゼロ戦に乗って、死ぬのが、夢だった 」 と、誇らしげに、話してくれました。
須賀さん のように、たとえ、中学生であったとしても、戦時中のことを、後悔している、と、
公に、きちんと、告白した人は、はたして、どのくらい、いるのだろうか。
このような人を、わたしは、心から、尊敬します。
今の時代に、失われようとしている、大事なことを、1998年当時に、すでに、指摘していた、 須賀さん は、
未来を、まるで、予測していたかのように、思えてなりません。
( 以下、抜粋させていただきました )
… ヴェイユという人について、はじめて聞いたのはいつのころだったろうか。戦後まもなく、
受洗に反対する両親とすったもんだの挙句にカトリックになって、しかも、あっという間に、
自分の信仰を戦時のフランスの抵抗運動と結びつける方向に私はのめりこんだ。
ヨーロッパの知識人の多くが抵抗運動に深くかかわっていたことは、
戦後いちはやく、日本にも伝わってきたが、そのなかで、カトリックの人たちが
どんな位置をしめていたのかについての情報は、ほとんど手に入らなかった …
… あっさりしたつきあいとは言っても、ヴェイユは、50年代の初頭に大学院で勉強していた私たち何人かの女子学生の
仲間にとって、エディット ・ シュタイン とならんで、
灯台のような存在だった。
… 女性であること、知識人であること、しかも、
信仰の問題に深くかかわり、結婚よりも自立を選んだことが、
世間知らずでむこうみずな私たちにとっては、きらきらと輝く生き方に見えた。
「 ユダヤ人が教会のそとにあるかぎり、じぶんはキリスト教徒にはならない 」 というヴェイユの信条に、
息もできないほど感動していた時代があった。 …
…
宮沢賢治の 「 世界が幸福にならないかぎり、自分ひとりの幸福はありえない 」 という言葉に、私は勝手にヴェイユを
重ねあわせ、それを彼女のやさしさ、と解釈したのだったが、いま彼女の著作の文脈に照らして考えてみると、
それは厳しい論理と深淵な知識の上に立った力づよい選択だったにちがいない。 …
… 1972年に出版された、リースというイギリス人が書いた 『 シモーヌ ・ ヴェイユ ある肖像の素描 』 ( 山崎 庸一郎 約 筑摩書房 )
は、刊行年からみて、私が夫の死後、イタリアから帰って、
もういちど生活の方向をたてなおそうとしていた時代に読んだらしい。
「 多くのものが教会のそとにあります。わたしが愛していて棄てたくないと考えている多くのもの、
また神の愛する多くのものがそとにあります。神が愛するのでなければ、それらのものは存在しないはずだからです。
最近の20の世紀をのぞいて、過去の巨大な拡がりをなす、すべての世紀、有色人種の住むすべての国々、
白人の国々におけるすべての世俗的な生活、その国々の歴史のなかで、マニ教やアルビジョワ派のように異端として非難されるすべての伝統、
ルネサンスから出て、あまりにもしばしば堕落しているとしても、全然無価値とは言いがたいすべてのもの、そういうものが教会のそとにあります 」
『 神をまちのぞむ 』 からのこの引用は、このしるしをつけた20年前から今日に至るまで、そしておそらくは、私の生のつづくかぎり、
ずっと私のなかで、ヴェイユに大きく呼応するはずの部分である。
教会の中か、そとか、というような性急な選択をすることはない、
いまの私にはそんなふうに思える。それを決めるのは、おそらくは、私ではないはずだとさえ思える。 …
… 世界はいつも、じぶんの知らないところでつながっているようだ。
フランスやイタリアには、青春の日々に、ヴェイユ や ムニエ や ペギー、サン = テグジュぺリ を読んでそだった世代というものがあるように思う。
たまに、そういう人たちと出会うと、
はじめて会った人でも、たちまち 「 つながって 」、時間のたつのをわすれて話しこんでしまう。
中世までは、教会のラテン語をなかだちにして、ヨーロッパ世界はよこにつながっていた。
戦後すぐの時代に芽ぶいたのは、中世思想の排他性をのりこえて、
もっと大きな世界をよこにつなげるための思想だったのではないか。 …
( 以上、抜粋させていただきました )
「 トリエステの坂道 」 ( 平成7年9月 刊行 )という、須賀さんのエッセイの、最後に、付録として、収められた、
「 古いハスのタネ 」 より、
( 以下、抜粋させていただきました )
… 文学と宗教は、ふたつの離れた世界だ、と私は小声でいってみる。でも、
もしかしたら、私という泥のなかには、信仰が、古いハスのタネのようにひそんでいるかもしれない。 …
( 以上、抜粋させていただきました )
「 遠い朝の本たち 」 ( 1998年4月 刊行 ) の “ 星と地球のあいだで ” より、
( 以下、抜粋させていただきました )
… サンテグジュぺリが、ドイツ軍に占領されたフランスの解放をねがって、北アフリカで軍事行動に参加中、
1944年、偵察飛行に出たまま行方不明になったという話しが私の意識を刺しつづけた。
自分は、中学生だったとはいえ、
戦争中なにも考えることなく軍事政権のいうなりになっていたことが口惜しく、
彼のような生き方への憧憬は年齢とともに私のなかでつよくなった。
行動をともなわない文学は、というような口はばったい批判、理論ともいえないような理論を
友人たちと論じてすごした時間を、いまはとりかえしたい気持ちだし、
自分は、行動だけに振れたり、文学にとじこもろうとしたり、
究極の均衡 ( そんなものがあるとすれば、だが ) に至るのはいつも困難だった。
自分にとっては人間とその運命にこだわりつづけることが、
文学にも行動にも安全な中心をもたらすひとつの手段であるらしいと理解するまで、ずいぶん道が長かった。 …
( 以上、抜粋させていただきました )
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