弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

共感不可能

2016-11-16 00:09:04 | 思考
ロジャーズがカウンセラーの必須の態度として、「共感的理解」なるものを挙げて数十年。
実証的な研究でもその要素は大事らしいということは判明している。(必須なのか、カウンセリングが成功する条件なのかは分からない。)

だが、どうやら、私は誰にも本質的な共感はしないし、されたくもないことが分かった。
俯瞰的・客観的理解はできるが、それは科学的思考だろう。。。

というのも、利用者として、「同胞」として、時に「聴く側」として今までに色々な機会があったが、まず利用者としては相手に簡単に理解されたくないという想いがあり、感情的にそれを表されるのは不快であり、身振り手振りで相手が「分かる」アピールをすると逆に嫌悪感を催す。
これは、大学の学生相談でもそうであったし、病院でのカウンセリングでもそうだ。
次に、同じような症状を抱える者同士である時も、例えば自助会やSNS、デイケアなどの場面でも、同様の傾向がある。
ただ、例外として、「同じ年代」の「同性」で、「一定以上の知性と品性がある」人であるとそうでもないらしい。
聴く側としての経験は職務・ボランティアなどではないが、自殺してしまった友人や自傷経験のある友人と深く話をしたことはある。向こうからすると、やはり話しやすいのであろう。ただ、自殺既遂の友人に対して結局本質的な援助は出来なかったし、自傷経験のある人は(自傷ということからではなく)性格の方面で同族嫌悪が発生することがあるし、考え方に理解を及ぼせないこともしばしばある。

ある、臨床心理士兼大学教授が、
経験しないと共感も理解もできないということは間違いです。
などと声高に唱えていて、それに反感を覚えることは今でも変わりはない。だが、
経験が足かせになることがある。
それは認めよう。人間はどうしても自分の視点でしか見ることが出来ず、また、それには様々なバイアスがかかるから、類似の経験は相手の経験への共感・理解を阻害することが多々あるということだ。
まあ、明らかに「異質な経験」は経験しないと、理解「したつもり」が、相手の経験の本質にかすりもしないこともあるのだけど。

結局、
他の人の苦しみには遺憾の念は表すが、私にどうこう出来る問題ではない。どうこうするべき問題でも、しようとすべき問題でもない。
また、自分の苦しみは他人にどうこう出来る問題でもなければ、どうこうされるべき問題でもない。

それでも、やはり、彼には生きて欲しかった。


コメントを投稿