弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

真夏の夜の悪夢の回避~進化か深化か~before birthday

2017-08-22 20:29:47 | 思考
さて、患って半生、精神科通院12年になる今夏である。
ふとしたことから、発症当時の症状がぶり返したかな、と思ったが、すぐに立て直せたようだ。

きっかけは、スーパーのレジでのお釣りの渡し方。
落とすように渡す・・・その行為にいつも被害的な想いを抱いていた。
症状はそれだけではない。まとめれば、他人(特に女性)との接触が予想される場面での不安と被害的観念。
これに中高男子校や父の死、受験失敗などの要素がからんで抑うつ状態となり、通院へ。

今日もそうしたことがあった。
だが、相手はやる気も愛想も無いおばさん。
正直どうでもいい存在だ。
何故、そんなどうでもいい存在に心を煩わされなくてはいけないのか。
それは、どうでもいいという意味では若くて綺麗な女性でも同じだし、もはや行為に注目すると家族や親友でもそうだろう。

独我論的な世界観を抱いて久しいし、ニヒリズムにも毒されている。
ただ、他人の権利や人格を好んで侵害するほど、たちの悪い性格はしていない。
それでも、私に与えられているものはこの私とこの主観的世界だけで、それ以外は何ら尊重に値しない。
他者が-その自我や意識などという性質に関わらず、-私の主観的世界の一部を構築するするのは確かであるが、認識しなければ存在しないのと「同列に扱う」し、認識の仕方でその様相は異なってくる。
要は私次第だし、それ以上でも以下でもなく、私の心を煩わせるに値しない。

自我だとか自意識だとか、そういうものについても考えてはいるが、結局それもどうでもいい。
(今の考えでいうと、「それ」は社会的相互作用から生み出される何かだ。名称はどうでもいい。)
ただ重要なのは、世界を限りなく私の側に引き寄せていると同時に、私というものも客観視していることだ。

ということで、明日には忘れている-私の世界に存在しないであろうどうでもいいスーパーのおばちゃんから、どうでもよくないことを再認識できた。
近頃、睡眠の問題で苦しさに圧倒されていたので、このことは大きい。
何にも煩わされる必要も価値もない。

ただ、留保しておこう。
私の主観的世界を消し去ろうと思えば手段はどうであれ、出来る。
もはや、主観的世界自体が何の価値もなくなったら、終わらすべきだ。

価値だとか意味だとか、そういうものを論じる必要はまだ残っている。
言語哲学にもいつか手をつけなければいけない。


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