弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

不適切感と不確実感と・・・逃れられない

2018-05-08 14:55:17 | メンタル
大学院受験の受験校選びで右往左往して何かよく分からないまま時間だけが経っている。
無論、そればかりをしている訳でもないのだが、大体、何をしていてもタイトル通りの感情が蠢いている。

(このまま大学院に進めるかでいうと、行動と結果の随伴性の認知がないのだろう。すなわち、いくら勉強・研究を進めても合格できるという感じがない)

これにはきっと、行動の制限に関しては障害者、病人、というスティグマを持ち出してそれが内在化してしまっている(自己スティグマ)のに対し、表面上はそれを出せない(職業選択のことで病気を言い訳に出来ない)こと―自己矛盾にも起因していると思う。
そしてこのことは、多分、障害者採用という道を選ばない限り、これからもずっとつきまとう問題である。

障害者年金を受給したことで何かが変わったかというと何も変わっていない。
(おそらく、家族の私への認知の仕方は変わったが、それで何かが解決したわけでもない)
友人には言えないし、これからも内面と外面の乖離に苦しんでいくのは目に見えている。

じゃあ、障害者採用で自分が納得するか、楽になるかというと・・・それもないだろう。
今度は、己の信念上の問題から逃げたことになってくる。外的な要求に屈したことになってくる。
そこにあるのは諦めと落胆だけだ。

だから、障害者採用に行くのは、大学院-研究者としての道を諦めることに納得がいったときだけ。
それまで、この二重の苦しみからは逃れられない。

―――――付記
文系で修士・博士まで行って、企業の採用者が障害者として雇うことは有り得るのだろうか。
一般論でも文系の研究者崩れは扱いにくいのに、年増・精神障害者の研究者崩れを雇うとは到底思えない。


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