弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

忘却とトリガー、そして物語るということ

2018-10-24 00:37:36 | 思考
私は懐疑主義者なので、根本的な善悪の存在を認めない。

というのは建前で、やはり、実際の出来事、創作物であっても、死、手術、自殺、といったものは過去の記憶のトリガーー罪の意識を呼び起こすようだ。

罪があるとするならば、それは移ろいやすさだろう。そして、それは記憶と忘却が大きく関わっている。
私は実定法の罪を犯した訳ではないが、透明な罪業ー道義的な罪を二つも犯した。
そしてそれは許されるものではない。
故人は許す主体にはなれない。自分で自分を許してもならない。
それはいかなる罰を受けても同じだ。

故人は許す主体にはなれないといっても、故人の意志が有形無形なもので明確に推定できるなら話は別だ。ところが、それすらも私にはできない。
あまりに、唐突過ぎた。

だが・・自殺した友人kとは違い、亡き父が私に罰を受けろという意志を持っていたというのはさすがに推定出来ない。
父の死に関しては色々あったが、私と父の関係性自体は悪くなかった。むしろ、父は私に期待していた、
なので、その件はもう抱え込んでも仕方ないだろう。
だが、年々、父のことを忘れていってしまうのは歯痒い。

自殺した友人kのことだが、その顛末と私の透明な罪は自分は墓場まで持っていくつもりであった。
だが、自殺、というワードを見聞きすると必ず彼のことを思い出す。
彼の死後、私はmECTを受け、眠る際の恐怖や動悸に苛まされている。
毎日、起きた時に、自分が本当に生きているのか不安になるくらい。

もはや、罪というか呪いのようなものだ。繰り返すが、彼が自殺の直前にこのような呪いで私を苦しめる意図があったかは分からない。

さて、事の顛末を他者に話すと物語となり、物語は嘘をつく。
物語ることで楽になってしまう部分もある。
そして、楽になることは許されるのだろうかという疑問がある。
だが・・最近、物語ー虚偽を含んだものとしても、誰かにそれを語りたくなる。
誰のため?自分のためでしかないだろう。

許しを乞うことでなく、教訓を伝えることでなく、自分のため以外に物語るということはあり得るのだろうか・・
もし、その可能性があるとするならば・・



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