弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

境地

2016-11-30 23:34:28 | 思考
今現在の心理哲学的境地にいるのは苦しい。だが、他人とは少し違った経験から至ったものでもあり、「真摯に」苦しめられているのもあり、尊重したいというのもある。ただ、独善的に生きるよりは。

独我論的に(他我問題として)・・・
他人の感情とやらは本当に発生しているのだろうか。
いや、そもそも意識や自我を持っているのか。

これを「私が」確認できる方法はない。だが、僅かに残る日常的な感覚で対人場面でそんなことを考えることは少ない。でなければ、対人緊張や関係念慮自体発生していないだろう。

・・・だが、先日、友人(旧帝大助教)に、

意識の研究をしていって、果てに、コンピュータに意識や自我を持たせられたとして、そのことは確認出来るのか、いや、そもそも日常的に他者に「それ」が備わっているとどうやって確認しているのか。


という問いを投げかけた。
そうしたら、

確認できないけど何か問題ある?

という返答しか返ってこなかった。
ひょっとしたら、最初の問いなど答えが無い、或いは、「確認できない」ということは当たり前の上で、それでも何の違和感もなく不都合も不思議もなく生きているのかもしれない。
あまり、理系/文系という大雑把な区分で人間を、というか研究者を分けたくないが、もしかすると最初の問いは理系の科学者には当たり前すぎる-そして既に通過した問題なのかもしれない。
対極的に、そのことが不思議で、「何故」という思考を持ち続けられるのが文系の研究者なのかもしれない。

勿論、人工知能-認知科学は学際的な分野であるので、あまり文系理系という区分は意味をなさないが。。

「他我の確認」というものは、脳の諸活動を覗いたりすることによってもたらされるものではない。
日常的には、それが「あたかも」あるように振る舞っていることを、主に視覚で観察することによって、あるように「みなしている」だけで、それは何の不都合も生まないし、そうしないと生きていけないだろう。
だが、非現実的-離人的感覚に一度囚われると、なかなか抜け出せない。
そして、共感や同情といった人間的な働きが発揮されなくなる。
他者への関心・没入というものを阻害する。

追記しておくと、こういう質問を自分から投げかけられる時点で、「真正の」「独我論」ではない。
他者から同じ質問をされたら、「私」が相手にとって「他我」でとなるからだ。
本質的に共通の問題意識には上らせることで既に問いが破たんしているのだ。(コンピューターは例外)