今日は久しぶりのオフでした。今年度に入ってから、土曜日曜の出勤も増えたので、のんびり出来ずにいましたが、今日はほとんど一日家にいて、蝉の声を聞きながら、書き物などして過ごしました。
尾瀬から帰って以来、何か都会の生活になじめず、困っています。朝、目を覚まして聞く鳥の声は、澄んだ空気を切り裂くような強烈な刺激でした。驚くほど大きくて、よく響く声は、街で聞く鳥の声ではありません。頬を撫でていく風、草の匂いのすがすがしさは、忘れていた少年時代を思い出させてくれました。広がる湿原にあって、木道を行く人々を送り出してくれた至仏山、迎えてくれる燧ヶ岳。今年はあの頂に立ったのだと思うと、帰りに振り仰いだ燧ヶ岳は、もう人を拒むような顔ではない。大地に包まれて、理由もなく涙が落ちそうになりました。
昨年より少なくて心配な花々でしたが、厳しい冬に耐えて咲く花々は、可憐でありながらも逞しく、短い生命を謳歌しているように見えました。それにつられて、木道を歩く人々も明るく声を掛け合い、何とも言えない親近感を感じることができます。平素の生活の中で、他人がこれほど身近に感じられることはありません。自然の中で、人の心も自然に帰れるのかもしれません。
尾瀬にいると、朝はうれしく、昼は明るく、夜は淋しい。自然の中で、自然とともに、人の感情も穏やかに動いていく。毎日がそんな生活であったならどんなにすばらしいだろう、そう考えずにはいられなくなります。所詮、考えてもしかたのないことだとはわかっています。でも、考えずにいられない。それが自然の魅力、尾瀬の魅力なのでしょう。帰ってきてからわかるというのは、どうも間抜けな話ですが、どんどん強まるこの思いというのは何なのでしょうか。
尾瀬から帰って以来、何か都会の生活になじめず、困っています。朝、目を覚まして聞く鳥の声は、澄んだ空気を切り裂くような強烈な刺激でした。驚くほど大きくて、よく響く声は、街で聞く鳥の声ではありません。頬を撫でていく風、草の匂いのすがすがしさは、忘れていた少年時代を思い出させてくれました。広がる湿原にあって、木道を行く人々を送り出してくれた至仏山、迎えてくれる燧ヶ岳。今年はあの頂に立ったのだと思うと、帰りに振り仰いだ燧ヶ岳は、もう人を拒むような顔ではない。大地に包まれて、理由もなく涙が落ちそうになりました。
昨年より少なくて心配な花々でしたが、厳しい冬に耐えて咲く花々は、可憐でありながらも逞しく、短い生命を謳歌しているように見えました。それにつられて、木道を歩く人々も明るく声を掛け合い、何とも言えない親近感を感じることができます。平素の生活の中で、他人がこれほど身近に感じられることはありません。自然の中で、人の心も自然に帰れるのかもしれません。
尾瀬にいると、朝はうれしく、昼は明るく、夜は淋しい。自然の中で、自然とともに、人の感情も穏やかに動いていく。毎日がそんな生活であったならどんなにすばらしいだろう、そう考えずにはいられなくなります。所詮、考えてもしかたのないことだとはわかっています。でも、考えずにいられない。それが自然の魅力、尾瀬の魅力なのでしょう。帰ってきてからわかるというのは、どうも間抜けな話ですが、どんどん強まるこの思いというのは何なのでしょうか。