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観自在

身辺雑感を気ままに書き込んでいます。日記ではなく、随筆風にと心がけています。気になったら是非メールください!

ブックリスト~『生物と無生物のあいだ』

2009-05-15 00:11:54 | 読書
『生物と無生物のあいだ』 福岡伸一 講談社現代新書

 ウイルスというものは、当然、生物だと、いままで何の疑いもなく思っていました。しかし、作者の考えは違います。ウイルスは、栄養も摂取せず、呼吸もしていない。皆同じ大きさ形で、個性がなく、特殊な条件で濃縮すると結晶化するといいます。そんなウイルスが唯一生物であるとする証拠は、自己を複製する能力があることだけなのです。では、自己を複製できれば生物と言えるのか、それが、この本のテーマです。
 私は文系の人間ですが、かなり理系も好きで、この種の本はよく読みます。その中でも、この本は出色ですね。まず、大変わかりやすい。次に、作者自身の体験が素晴らしい文体で書かれています。アオスジアゲハのさなぎをとって忘れていたこと、孵化前のトカゲの卵を覗いてしまったこと、これら少年の日の体験が描かれる文章は「詩」としか言いようがありません。時間軸の上で折りたたまれているもの、非可逆的なもの、そうした命の尊厳や神秘が静謐な文体でつづられています。だから、ウイルスのように生命の律動を持たないものは生物ではないのです。展開も首尾一貫しており、わかりやすいです。生物に関するもので、これほど素晴らしい本を読んだことはありませんでした。
 これを読むと遺伝子の組み換えなど、バイオテクノロジーは生命に対する冒涜なのだと感じられます。作者が言うように、我々人間は、自然を畏敬し、生命を見守ること以外できないのではないか、してはならないのではないか、素直にそう感じられるようになりました。
 07年刊。私にとっては新しい本です。この本、まだ新書のベストセラーに入っているのですね。当然という気がします。

ブックリスト~『目撃者』  日本で一番美しい文章

2009-04-18 12:53:34 | 読書
 日本で一番美しい文章を挙げろと言われたら、私は真っ先に近藤紘一氏の『夏の海』という短編から、その最後の章である「歌声」を挙げる。これは文庫本にして2ページにも満たない文章であるが、何回読んでも、涙なしには読むことができない。世界一といいたいが、語学に堪能でない私は、外国文学には弱いので、日本一にとどめることにする。
 近藤氏は既に故人である。1986年に癌のために逝去している。近藤氏の著名な作品は『サイゴンから来た妻と娘』『バンコクの妻と娘』などであろう。この『夏の海』は小品であり、アンソロジーに近い作品であることから、あまり知られていないようだ。
 ここに光を当ててくれたのが沢木耕太郎氏である。彼は『テロルの決算』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したが、そのとき、同時受賞したのが『サイゴンから来た妻と娘』だった。そして、近藤氏の死後、『近藤紘一全軌跡』から『目撃者』と題する文庫本を編んだのが沢木氏だったのである。『夏の海』はその本に収められている。
 近藤氏の最初の奥さんは外交官の娘であった。父親の任地を転々とし、その後、日本で近藤氏と結婚するが、新聞社に勤めていた近藤氏がパリへ転勤となる。日本に慣れようとしていた奥さんは、夫にしたがって転居した後、精神を病んで亡くなったのである。1970年のことだった。
 その奥さんの思い出を綴ったのが『夏の海』のようだ。「歌声」は本当に美しい文章だ。ここに転載できないのは残念だが、文庫本『目撃者』は古本屋で100円で売っているので、ぜひ手に取ってみてください。そして、276~278ページを立ち読みでよいから読んでみてほしい。その不思議な透明感に、目頭が熱くなると思う。こんなに繊細で悲しい文章は他にない。こんな文章は並の人間に書けるものではない、そう思う。

ブックリスト~『すべては音楽から』

2009-03-12 16:10:41 | 読書
『すべては音楽から生まれる』  茂木健一郎  PHP新書497 2008.1刊

 作者はクオリアというものを使って脳を探求している脳科学者です。テレビ出演も多いので、ボサボサ頭の風貌を思い浮かべられる方も多いことでしょう。
 この新書は、前半が、作者の音楽体験をもとに脳科学とからめて音楽を論じたもの、後半はルネ・マルタン氏との対談の形式をとっています。音楽好きにはこれでよいのでしょうが、全体のまとまりには欠ける感じがします。
 「脳とシューベルト」という副題がついており、「未完成」や歌曲など、シューベルトの作品や伝記にまつわる文章も含まれていました。私も「未完成」が好きで、中学生の頃はほとんど毎日、学校から帰るとレコードを聴いていた覚えがあります。「なぜ未完成なのか」という問いには、少女漫画で読んだ内容を信じて、失恋だと思って納得していました。その演奏を聴いた作者の感想が『ホール全体に「解釈の波」とでも呼ぶべきものが流れていた』「私自身が鳴っていた」など、音楽の感動が文章に置き換えられていますが、正直、わかるようなわからないような。音楽の感動は個人的な体験なので、人それぞれ感じ方が違うのだと改めて考えさせられます。
 さて、私が大変納得できたのは、作者が秘仏を拝観したときの感慨でした。秘仏は開帳の時以外は拝むことができないが、脳は不可視のなにかを無限に追い求めるものだという。その何かを考えることが喜びや「生きる」ということなのだと作者は結論し、音楽も同様、本体が見えず、聞こえないものをいかに想像するかというところに、聴く本質があると述べています。そのような想像力が音楽を聴くということであるなら「解釈の波」「自身が鳴る」というようなイメージもわかるような気がします。
 やや散漫な内容かと思いますが、クラシックファンは別な感想をお持ちになるかもしれません。

ブックリスト~『日本語が亡びるとき』

2009-03-10 00:00:46 | 読書
『日本語が亡びるとき』  水村美苗  筑摩書房   2008.10刊

 著者の水村美苗氏を初めて知ったのは『續明暗』を読んだときだった。当時、私は漱石の作品を集中的に再読していた。ちょうど『明暗』を読んだ直後で、未完の大作の結末がどうなるのかと興味を持ちつつ、一気に読み終えたことを覚えている。一流の作品の続編を書くと言うことは、大変難しいことだったと思う。よくできているとは思ったが、正直、違和感も強かった。
 次に読んだのは『本格小説』だった。これは、題名のごとく、まさに本格小説だった。カズオ・イシグロの『日の残り』を彷彿とさせるような重厚な小説だった。ストーリー、人物描写、主題、どれをとっても一流の作品であった。02年の読売文学賞を受賞したのは当然であろう。確か、その年を振り返る年末の書評でも高い評価を受けていた。
 今回読んだ『日本語が亡びるとき』は「英語の世紀の中で」という副題が付いている。インターネットの時代、グローバル社会を迎えて、日本語や小説の将来がどうなってしまうのか、文学に関心のない方であっても、興味をそそられる内容であろう。
 この作品は、筆者がアイオワで「作家達との国際交流」に参加したところから始まる。その交流を描いた第3章までは、小説か随筆といった趣である。第4章以降は評論の色彩が強まるが、福沢諭吉の猛勉強を描いた部分などは、久しぶりに司馬遼太郎先生の文に触れたような視点や手法が感じられて楽しかった。この本はジャンルを超えた、何とも面白い文体であると思う。
 この本からは、実に多くのことを教えていただいた。日本近代文学を奇跡と言う氏は、『ジェーン・エア』『嵐が丘』が1847年に書かれたのに対し、二葉亭四迷の『浮雲』の成立が1889年であることに注目する。続けて、氏は『たけくらべ』『にごりゑ』『坊っちゃん』『三四郎』『道草』『銀の匙』『阿部一族』『渋江抽斎』『歌行燈』『或る女』『濹東綺譚』『春琴抄』『細雪』を「優れた作品」として紹介していた。このような日本近代文学の奇跡について、氏は、書き言葉が成熟していたこと、印刷資本主義が存在したこと、植民地にならなかったことを挙げる。そして、当時、翻訳機関であった大学で学んでいた作家達が、押し寄せてくる西洋の紹介をすると同時に、曲折を強いられた日本の現実をしっかりととらえなおして書き留めたのが、日本近代文学だと言うのである。
 英語が世界語になった現代、日本語はどうなるのかという問題がある。日本語で読んでも西洋語の文学の善し悪しが或る程度わかるのは、日本語が西洋語からの翻訳が可能な語に変化してきたからである。一方、西洋語は世界語になることで、そのような変化の必要がなかった。漱石を西洋語に翻訳すると、日本語を読めない外国人は漱石をまったく評価せず、日本語を読める外国人ほど高く評価するという。日本文学の善し悪しがほんとうにわかるのは、日本語の「読まれるべき言葉」を読んできた人にだけ許されると作者は述べている。
 最後に、氏は教育問題に触れ、英語は日本人の一部がバイリンガルになればよいとして、国民総バイリンガル化を一蹴された。逆に、日本語の授業を増やし、「読まれるべき言葉」すなわち日本近代文学の秀作を読み継ぐことを提言されている。それは、近代文学が、書き言葉(出版語)が確立したときの語であり、西洋文明の洗礼を受けて曲折を経た語だからであり、気概と才能のある人々によって書かれたときだからである。
 明治の群像を文学界や日本語を取り巻く環境から見ても、あの司馬遼太郎先生が繰り返し語られた維新の人々の偉さが、あらためて痛感される。

ブックリスト~『旅する力  深夜特急ノート』

2009-02-11 12:29:29 | 読書
『旅する力  深夜特急ノート』 沢木耕太郎  新潮社

 2008年11月に出た『深夜特急』関係の最終便となる本です。『深夜特急』は、著者が26歳のとき、香港からロンドンを目指したユーラシア大陸横断の路線バスの旅を描いた大作です。私も文庫本で読んでから、多くの人にも勧めています。今回の本は、著者が深夜特急の旅を振り返り、旅というものを再度考察するとともに、深夜特急の旅の裏話のような内容も入っていて興味深いです。ノンフィクションが好きな私は、沢木氏の大ファンで、ほとんどの作品は読んだつもりですが、今回も楽しく読むことができました。沢木氏は、あの旅を何度も反芻することによって、旅に対する解釈をどんどん深めていらっしゃると感じます。
 私が最も感動したのは、巻末近くでした。現代人は、予期しないことが起きるということを予期しないところに問題があるのではないかと述べています。氏がテーマとするスポーツでも、その場面場面で予期せぬ事態が起こり、瞬時にそれに対応するところが見所であり、醍醐味だと思います。旅も同じだというのです。なかなか予定通りに進まないのは、旅も人生も同じですね。そうした思いもよらぬ事に対処していくことによって、人は少しずつ成長していく。そして、旅の力が増していくというわけです。
 私は若いときから、がちがちにプランを立てて旅行するタイプでした。知人には、宿も決めずにふらりとインドへ行ってしまう人もいますが、私などにはとうてい考えられないことです。そうした勇気のなさが、人生に悔いを残すことになりました。私は、もう自由な旅をする年齢でもなくなってしまいました。淋しい気がしますが、それが、私の器だったのでしょう。
 この本を読んで、また一人で旅がしたくなりました。近くでよいから、そこへ行って、自分を見つめる時間がほしいと思います。

ブックリスト~『そうか、もう君はいないのか』

2009-02-08 00:00:32 | 読書
『そうか、もう君はいないのか』  城山三郎  新潮社

 奥さんとの出会いと別れを淡々と述べて、心にしみる作品です。ベストセラーになるのも当然だし、こういう本が売れるということがうれしい気持ちにさせてくれます。
 城山氏ご夫婦が結婚するまでには、劇的な出会いと再会があったのですね。互いに初対面のときに強く感じるものがあったのでしょう。ピピッときたものがあったから、その後、再会したときに、結婚まで進むことができたのだと思います。文面からは、かなり違う性格のように思われますが、通じ合うものがよほど強かったのでしょう。
 検診から戻った奥さんが、歌を歌いながら帰ってくるシーンは印象的です。癌と知っても夫に強がってみせる姿が健気で心打たれます。
 筆者は病院に通い、食事の介助をしたり他愛もないお喋りに興じると述べた後、「そして、こういう時間ができるだけ長く長く続くように、なにものかに祈る」と書いています。そういうものだろうと思う。こういう事態に陥って初めて、人は日常のいとおしさ、平凡であることの幸福に気づくのでしょう。
 しかし、死が奥さんを連れ去ります。思い出したくないのでしょう、城山氏の記述も淡々としています。それが、心の傷の深さを感じさせます。
 その後、死を受け入れられない筆者は、奥さんに話しかけようとして「そうか、もう君はいないのか」と気づく。読む者さえいたたまれなくなるような孤独感、絶望感が感じられます。この言葉が本のタイトルに使われたのでしょう。印象に残る言葉です。
 巻末に添えられた、次女の方の文章は素晴らしいですね。さすがは作家の娘だと思います。ご両親の姿をよくとらえて書いていらっしゃいます。失礼ながら、この親にしてこの子あり、という感じです。不覚にも涙がこぼれ落ちました。
 この本を読んで、私は幸せだと思いました。私は、配偶者に先立たれても、けっしてここまでの悲しみを味わうことはないと思うからです。

ブックリスト~『漱石 母に愛されなかった子』

2009-02-03 22:01:29 | 読書
『漱石 母に愛されなかった子』 三浦雅士著 岩波新書1129 

 08年4月に出た新書です。
 漱石が国民的な作家であることに異を唱える人はいないでしょう。第一章「坊っちゃん」から第九章、未完の絶筆『明暗』まで、漱石の小説の根底には、母の愛を疑うという思想が一貫しているというのが、著者の見解です。漱石は、両親が高齢になってからの子であり、里子に出されたことなどは有名ですが、それを縦糸に論が進められています。終わりの方になって、分量や時間の制約があったのか、やや展開が粗雑になっているように感じましたが、それまでは、一つ一つの作品を思い出しながら、実に納得しながら読むことができました。作品の中に漱石を読み取り、漱石の履歴から作品を読み解くという、双方向の分析は見事でした。こんな視点で漱石作品を読み解くことができるのだなあと感心しながら、一気に読み終えました。
 私も、ことあるごとに漱石作品を読んできました。おそらく、繰り返し読んだのは『こころ』が一番でしょう。Kの自殺した心境は理解できるとしても、先生が自殺する理由が納得できなかったというのが理由でしょう。納得できなかったというのは、小説がわかりにくいということではなく、こちらの読みが浅くて理解できないのだという思いがあったので、何度も読んだのだと思います。前回読んだときに、自分としてはある種の結論が出たように思いますが、ここでは触れません。本書では『行人』と関連づけながら、言及されていました。夫婦が向かい合うことの難しさを描いた構造は、確かに二作品に共通しており、私がなぜ、『こころ』に惹かれてきたのか、はからずも教えられました。自己の苦悩を重ねて読んでいたのですね。
 著者は、『こころ』を漱石作品を集約する集大成と位置づけていますが、説明されると改めて共感することができました。漱石の作品群を関連づけて論じることは、いろいろ行われていますが、新書ということもあって、非常にわかりやすく述べられている本書は、最適の入門書と言えましょう。スリリングな漱石論としておすすめします。

文章の極意はシンプル・イズ・ベスト

2009-01-26 22:17:37 | 読書
ブックリスト~『文章のみがき方』 辰濃和夫  岩波新書1095  2007年10月刊

 天声人語を担当していた筆者の著書では、以前、同じ岩波新書『文章の書き方』を読みましたが、今回の方が具体的で、はるかにわかりやすいと思いました。文章の書き方について、筆者が「名文」と感じる作品をもとに、簡潔に解説する体裁をとっています。
 「現場感覚をきたえる」の章では開高健氏の『輝ける闇』を題材にしています。私もかつて読んだ本ですが、公開死刑の情景は本当にリアルで、血なまぐさい雰囲気が伝わってきて息苦しいほどでした。
 また、「小さな発見を重ねる」では、向田邦子氏が山小屋で見た犬の目について書いたエッセーを紹介しています。肉をねだって必死に訴える目に、自分が真剣に生きているかという疑問を重ねて秀逸です。
 「正確に書く」では、登場人物の心理を○×式で答えるような昨今の試験問題をとりあげ、○×の試験に慣れた子供は、人の心の複雑な思いを一つに絞って、他の感情を切り捨ててしまうのではないかと危惧しています。
 「土地の言葉を大切にする」という章では、東峰夫氏の『オキナワの少年』を例に、青森に住む人が、沖縄の言葉をある程度理解できるようになることが、私たちの文化を豊かにするのではないかと提案されています。私は映画を思い出しました。
 「動詞を中心にすえる」では、現代を名詞の時代ととらえ、多くの新語が生まれ使い捨てられている現状を憂慮しています。動詞は時代が変わっても変わりにくい品詞だそうですが、現代は、例えば「持ち帰る」が「テイクアウト」とカタカナ化され名詞化されています。筆者は、動作をしながら、それについて考えることが重要だと述べていますが、考えてみれば、私たちの思考は動詞によって組み立てられています。動詞が廃れることは、思考が浅くなることを意味するのかもしれません。
 この本で強調されていたことは「抑制して書く」ということではないでしょうか。「単純・簡素に書く」「抑える」「削る」「そっけなさを考える」などの章を読んでも、シンプル・イズ・ベストという思想が読み取れます。最近の私の文章は、自己顕示欲が強くて、シンプルと言えなくなっているように感じ、反省しました。
 最後に。「書きたいことを書く」の章で田口ランディ氏が紹介されていました。氏は、あふれる言葉をインターネット上に書き続け、5万人が読んでくれるようになって作家としてデビューしたそうです。そこまで頑張ってこそ、結果が出るのですね。
 ハウツーものを超えた内容です。文章の読み書きに関心のある方は是非お読みください。

ブックリスト~『離さない』

2009-01-09 23:54:29 | 読書
 川上弘美氏には、出世作『蛇を踏む』から注目していました。平凡な日常の中に、異界や異類と交わるねじれた時空が、ごく自然に入り込んでくるような不思議な世界を描き出す方ですね。
 昨年、読んだ『離さない』という短編も秀逸でした。主人公と、同じアパートに住むエノモト氏が、人魚に心を奪われて何も手につかなくなり、存在の危機にまで至る状況を、実に自然に描き出しています。人魚という設定が、艶めかしくも神々しくもあり、守ってあげたいという、切ない気持ちにさせます。この短編の成功は、この人魚というモチーフに負うところが大きいと思います。魔性の人魚に魅入られてしまう二人の気持ちに、大いに共感できてしまうのです。
 しかし、その人魚をいろいろなものに置き換えても、この物語は成立します。お酒やギャンブル、異性など、日常生活がうわの空という感じにまでのめり込んでいる人は、決して少なくないようです。私にもそんな時期が確かにあったように思います。今にして思えば、愚かだったと思う気持ちも強いですが、それだけ没頭できたということは、ある意味では幸せだったのかもしれません。それがあれば他には何もいらない、すべてを犠牲にしても手に入れたい、熱に浮かされたように思い焦がれ、現実を廃人のような視線でしか見られなくなったこと。破滅の予感を感じながらも、むしろ、それを望みつつ、突き進まなければ気が済まなかったこと。そんなことはなかったでしょうか。
 川上氏は、そんな下世話で通俗的な物語にならないよう、人魚を選んだのでしょう。しかし、描かれた人魚の魔性からは、人間の心の闇の部分が、実に見事に描き出されていました。主人公達は、ぎりぎりのところで、何とか踏みとどまることができたのですが、それが多くの人々の姿でしょう。やはり理性で魔性に打ちかたねばならないのだと思います。
 もちろん、生き方、考え方は人それぞれでよいでしょうから、私のような破滅志向?もアリだと思います。

ブックリスト~『夢をかなえるゾウ』

2008-12-16 21:29:28 | 読書
『ゆめをかなえるゾウ』 水野敬也  飛鳥新社

 2007年8月に出版され、1年足らずで29刷まで売り上げを伸ばしている単行本です。
 ゾウとは、ガネーシャというインドの神様のこと。セレブのパーティーに参加して嫉妬と絶望に凹んだ主人公のもとに、突然姿を現すところから物語?は始まります。
 会社生活に満足できず、自分を変えたいと思いながら、何も出来ずにいた主人公に、ガネーシャは様々な課題を出して、夢を叶える手伝いをしようとします。ガネーシャがかつて教えたという偉人は、リンカーン、ナポレオン、シェイクスピアからタイガー・ウッズ、イチローまで、ハチャメチャです。そうした偉人の言葉や生き方をもとに、ガネーシャは主人公の若者に多くのことを教えていくという展開です。その課題とは、靴磨きから始まって、コンビニで釣り銭を募金すること、相手が何をほしがっているか見抜くこと、トイレ掃除をすること、頑張った自分を毎日ほめること、いかなるときでも運がよいと口に出して言うこと、ひとの成功をサポートすること、毎日感謝することなどです。一見、人生の成功とは無縁のようだったり、きれい事のような気のする課題だったりするのですが、共生や奉仕、プラス思考など、宗教的な実践を思わせるような事柄を、ガネーシャがすんなり納得できる形で諭してくれるのです。
 私が最も感じ入ったのは、やらずに後悔していることを今日から始めるという課題でした。私自身、絵に興味を持ちながら、それを磨かずに生きてきて、妙な未練で苦しんだ時期がありましたので、特に共感できました。何をしたらよいかわからずにいた主人公に、建築の勉強をしたかったことを思い出させ、それを始めさせるきっかけとなります。
 ガネーシャはあんみつが好きで、富士急ハイランドで遊び回るような変な神様ですが、その教えはわかりやく筋が通っており、生き方の指南書というか、ごく平易でユーモラスな哲学書として読めると思いました。300ページを超える本ですが、夢中で一気に読み終えてしまいました。今年のベストワンかもしれません。

ブックリスト~『ギャロップ!!』

2008-11-30 00:26:01 | 読書
 半年近く前になりますか、神楽坂にある料亭に飲みに行ったときのこと、店主が面白いと見せてくれたのが、この本でした。インターネットでようやく手に入れたという本は、絵本という範疇に入るのでしょうか。「しかけえほん」と表紙にも書かれているので、そういうことにしておきます。
 作者はルーファス・バトラー・セダー、訳者は「たに ゆき」とだけ表記されています。大日本絵画社刊で1900円です。
 「たに」さんには失礼ながら、確かに字は書いてありますが、内容にはあまり意味がありません。要するに、この本には「しかけ」があるのであって、「ページをひらくとどうぶつがうごきだす!」のです。
 本のページには黒い窓が開いていて、細く白いストライプが何本も入っています。そこに浮き出ているのは動物の黒い影。その動物たちが、ページをめくるごとに、動き出すのです! 最初は馬、次に鶏、犬、猫、鷲、チンパンジー、蝶、亀、最後は星と続きます。
 大がかりな仕掛けではないと思います。おそらく目の残像を利用しただけの単純な仕掛けでしょう。でも、それがとてもよくできていて、思わず惹きつけられてしまうのです。絵本とうたってありますが、子供より大人の方が面白がるでしょう。言いしれぬノスタルジアが感じられるのです。極めてアナログで、電池も何も使っていないからこそのよさだろうと思います。
 こんな単純なものに感動させられる、何とも小馬鹿にされたような、騙される快感のようなもの。このとぼけた感じが、この本の持ち味ですね。だから、書店で見つけて、すぐに買ってしまいました。馬鹿馬鹿しいと思いつつ。
 仕掛けがある分、むやみに厚く、背表紙も派手です。書店で見かけたら、一度手にとってご覧ください。でも、そうか、セロファンで包装されていますね。中を見ることは出来ません。購入してくださいと言いたくはありませんが、私は即決で買いました。何度も眺めて、ほのぼのしています。

ブックリスト~『14歳の君へ』

2008-11-10 21:52:28 | 読書
 大変話題になった2006年12月刊の本ですので、説明は不要でしょう。サブタイトルには「どう考えどう生きるか」とあるように哲学書ですが、平易な言葉で綴られ、哲学エッセイと呼ばれる分野を開拓しました。著者の池田晶子氏は2007年2月に亡くなっています。
 中学生の新聞に連載されたのが始まりということで、確かに読みやすいです。私は、各項目から、アフォリズム的に感想や気になったフレーズをご紹介しようと思います。
 【友愛】嫌いな人でも受け容れる。愛とは受け容れること。存在を認めること。
 【個性】本当の自分は、今ここにあること。だから、自分探しなど無意味。
 【性別】男女にこだわれば必ず不自由になる。
 【意見】自分の意見など持つな。正しい考えを自分で知ること。
 【勉学】学問はそれぞれが世界を知ろうと探究している。世界に自分と関係ないことなどはない。だから、世界を知ることは自分を知るということ。
 【歴史】歴史とは過ぎ去った過去で、もともと存在しない。想像するもの。
 【社会】自分を支配し束縛する社会とは、実体がないものだ。
 【道徳】道徳はきまりではない。善悪も時代とともに変わる。道徳は自己の中にあるのみ。
 【戦争】国などという存在しないもののために人々は戦っている。
 【自然】「自然を守ろう」が、自然と人間を対立的にとらえようとする傲慢を示している。自然は死んでも、自分の命は守ろうという人間中心の考え方は限界にきた。
 【宇宙】百億年前の星の光を見る不思議。自分が存在する以前の世界がなぜ見えるのか。
 【宗教】人間を超越した神を人間が理解することはできない。多神教は、生命を持つことが、はかりしれない仏のはからいととらえ、あらゆるものを神仏や魂と見なすから自在で寛容。
 【言葉】行ったことのない国、知らない歴史を出現させてくれるのが言葉の力。
 【お金】億万長者でも、明日死ぬことがわかれば、お金はただの紙切れ。本当の価値は君の中にある。
 【幸福】幸福とは、職業や生活の形ではなく、自分の心のありよう、そのまま。不幸な人は、自分が不幸だと思うことをやめれば、今すぐに幸福になれる。
 【人生】平均年齢が80歳であろうと、君がそれまで生きる保証はない。生きていること、そのものが人生。その不可思議を考えていくことの面白さに気づこう。
 今回は何もコメントしません。

陰鬱礼讃

2008-11-09 14:10:14 | 読書
 風呂場の照明は壁に二つついているのですが、しばらく前から一つが切れてしまい、夜の入浴は電灯一つになっています。電球を買ってこようと思いながら、なかなか時間がとれず、以前に比べると薄暗い風呂に入っていましたが、しだいにこれはこれでよいものだと思うようになりました。
 谷崎潤一郎氏の『陰鬱礼讃』は、古来、日本文化に関する名著として人口に膾炙しています。風呂に浸かりながら、ふと思い出し、短編ですので、さっと読み返してみました。冒頭に近い場所には、こんな記述がありました。「実際電燈などはもうわれわれの眼の方が馴れッこになってしまっているから、なまじなことをするよりは、あの在来の乳白ガラスの浅いシェードを附けて、球をムキ出しに見せて置く方が、自然で、素朴な気持もする。夕方、汽車の窓などから田舎の景色を眺めている時、茅葺きの百姓家の障子の蔭に、今では時代おくれのしたあの浅いシェードを附けた電球がぽつんと燈っているのを見ると、風流にさえ思えるのである」
 谷崎氏は、その他の箇所でも日本家屋の照明に言及されていますが、私の住むのが洋風のマンションであっても、氏のご指摘には共感させられる点ばかりです。和の艶というものを、改めて感じることができます。
 切れた電球は、しばらくこのままにしておこうと思います。

ブックリスト~木を植えた男

2008-10-23 22:55:36 | 読書
 高校時代、『リーダーズダイジェスト』という月刊誌を定期購読していました。アメリカのリーダズダイジェスト社(RD社)が出している雑誌で、本を要約して読むことで、時間や手間を省こうという、合理的精神の権化のような本でした。ただし、採り上げられている本は、どういう基準で選ばれているのかよくわからず、かなり恣意的な選択がされているような気がしたのは私だけでしょうか。
 急に、そんなことを思い出したのは、ジャン・ジオノの有名な著作『木を植えた男』に、このRD社が深く関わっていたことを最近知ったからです。
 『木を植えた男』については、今さら説明するまでもないでしょう。プロヴァンス地方に住むブフィエ老人が、30年以上の長きにわたって木を植え続け、荒れ果てた大地を緑の森に変えたという物語です。無私の精神を貫いたエルゼアール・ブフィエは1947年、バノンの養老院において亡くなったことになっています。
 この掌編が誕生するきっかけを作ったのがRD社だったのです。RD社は「これまでに出会った一番忘れがたい実在の人物」というテーマでジオノに作品を依頼し、その求めに応じて書かれたのが『木を植えた男』でした。しかし、RD社がバノンの養老院でウラをとったところ、ブフィエは実在しないことが明らかになり、原稿は送り返されました。そこで、ジオノがとったのはのは、著作権を放棄し、誰でも自由に出版したり、雑誌に掲載したりできる形で、作品を世に問うことでした。それが『ヴォーグ』誌に掲載され、世界的なセンセーションを巻き起こしたというわけです。つまり、『木を植えた男』はまったくのフィクションということになります。
 では、ジオノはどうして、そんな作品をRD社に送ったのか。後に、作家の新井満氏が、ジオノの未亡人に取材したところによると、往事、プロヴァンスには、ブフィエのように、木を植えるという将来のために無償の行為をする人が、実際に何人もいたのだということです。その代表がブフィエであるとするならば、ジオノがでたらめを書いたのだと言うことにはならないでしょう。人を感動させるのは「事実」ではなく「真実」なのだとすれば、ジオノは「真実」を書いたと評されるべきです。
 RD社の対応には、大国の傲慢と狭量や硬直といったもの、そして、何よりも、人の心への無理解が感じられるように思います。壮大で華やかな、そして誰にでもわかりやすいアメリカンドリームも結構ですが、地道で哲学のある夢の方が、私には好ましく感じられます。
 

ブックリスト~『意識とはなにか』

2008-10-05 22:55:05 | 読書
『意識とはなにか ~〈私)を生成する脳』 茂木健一郎  ちくま新書434

 脳科学者として著名な茂木健一郎氏は、NHK番組の司会などで活躍されていますね。以前から気になっていたので、2003年に書かれた本書を読んでみました。
 全体として、この本は構成のバランスが悪いような気がします。全9章から構成されていますが、第4章くらいまでは、前置きといった説明が長く、冗漫な印象を受けます。第5章くらいから面白くなるのですが、ページの制約があるのか、内容をはしょる感じで終わってしまった点が残念です。
 作者は、例えば、ギラギラ、ピカピカ、キラキラといった言葉は、私達の心の中でユニークな質感をもって定義されているとして、それをクオリアと呼びます。クオリアは同一性(普遍性)を持つものであると同時に、あくまでも主観的な感覚です。一方、私達の脳内で、〈あるもの〉が〈あるもの〉であるという認知が成立するためには、そのクオリアが神経活動において生成されなければなりません。脳内には1000億の神経細胞が存在し、互いに数千のシナプスで結合し合って活動しています。そして、いわゆる学習によって、その結合は常に変化しているのです。つまり、クオリアの集合体が〈私)なのであり、その〈私〉はダイナミックに変化し続けているわけです。
 つい最近まで、私は、自分自身や自分の生き方というものはもう変えられないのだと開き直っていました。養老孟司氏の著書にも、人間は変わり続けるといったことが書いてありましたが、今回、茂木氏の指摘を読んで、得心できた気がします。
 自分がまだまだ発展途上人だと思えることは、何とも幸せなことだと気づかされます。そして、〈私〉という存在が、私自身の感性によって作り上げてきたクオリアによって構成されていると思うと、〈私〉に対する愛着が生まれ、ささやかな誇りさえ感じられるのです。