’終戦’を、’平和’への願いだと思うのはいい。しかし、平和はバランスであって、競合の無い状態でも、変化の否定でもない。 ’敗戦’と言えば相対的な歴史の中で語れるのに、’終戦’という’終わりたい’という希望を、日本語で国内で語ってしまい、自身での思考や相対的な対話を止めてしまった。
直感的に「死にたくない、死なせたくない」といいつつ、市場競合・合理化・利益の最大化で戦後の復興を遂げ、世界的な競合・不況の中で競合力を失えば、人員整理・倒産・失職・破産での自殺者数が増えた。 人身事故での鉄道遅延に怒りきれないのは、その自覚があったのではないか?
経済の戦いは、金融市場の嵐の中で、より早く、より強者と弱者が明確な、残酷な状態になってきた。しかし、僅かな利権や資産・一株でも持っていれば、その金融相場で勝ち残ろうと、日々の大切なニュースは天気予報と市場情報だ。
この避けられないグローバル化の中で、勢力のバランスをどうとり続けるか、勝ち・負けの終わりが来ない、持続的な互恵関係を、どうつくってゆくのか。
それは、適切にせめぎ合い、認め合い、頼り合うことであって、現状を固定することではない。 生活も・経済も・金融も繋がってしまっているが故に、どんな山村僻地でさえも、世界と競合・共存している。自閉を催す’終戦’という日本語が、次世代の希望を殺しているのではないか?
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