モノと心の独り言

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Twitter:つぶやき =「手前」のことば

2010-12-22 17:28:56 | コミュニケーション-メディア
<あらゆる反省的な意識の手前で、
 言語的な思考やロジカルな推論に先立って、
 あるいは明確な意思や決意よりも深いところで、
 身体はすでに世界に棲むみこみ、
 世界についてそのあらかたを
 「わかって」しまっている。>
    -『ことばと身体「言語の手前」の人類学』にて、
    フランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティの思考を一言で表した、
    菅原和孝氏のことば。

生命が環境と相互に作用しつづけた時間のなかで
形成され引き継がれてゆく=アフォーダンス
「こんにちは」「いい天気ですね」と交わされる
意味の伝達ではない’交話’(ことばによる交感)
は、互いの気持ちの交換であって、
言葉そのものの意味の交換が重要ではない。
「わかって」しまっていることを手がかりに、
理解しあえない孤立の深みをこえて、
伴に近しく感じていることで、自身を確かめている。
 生存条件がゆるくなってきた地域社会の’現代’では、
互いの生命や地域を奪い合う「戦争」は、擬似的なゲームにすり替わり、
言語的な思考やロジカルな推論による「真理」の欲求も希薄になる。
 それは、言語以前のコミュニケーションの手がかり、
身近な道具やネットワークによる、絵や写真や映像が、
’意識の手前’を伝え合えるようになってきたからでもある。
 しかし、つぶやき=Twitterが、フォローし合う時間の共有を前提とするように、
絵や写真や映像から意味を共有するには、その写された空間や時間を共有する必要がある。
 では、意味を共有する必要はあるのか?
コンビニとパートタイムで生きられるのではないか?
 いや、相手によってしか自身を確かめるしかない人間は、
相手がないと生きられない。
他人の欲望を生きているのが人間なのだとは、ラカンのことば。
 Twitterとは、フォローしあう影。
 Facebookとは、近代自我の影。
 意識の手前の身体を映すのは、
 もう、ソーシャルセンサーなのかもしれない。

(独り言は、140文字を越える)

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