モノと心の独り言

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中央集権と自律分散は、社会の両輪だ。さて、選挙の季節

2011-03-27 08:38:17 | 暮らし・街・環境
科学は、想定と検証によって、暫時・利用できる手がかりを組み上げてきた。
近代技術は、その手がかりを組み上げたものだ。
想定外の現象がおきた時に、科学者に、責任をとらせて説明せよというのは、
想定以上のことを期待するという、無いものねだりではないか?

政治は、「祭司」・「将軍・王」・「市の人の代表」と替わってきた。
信仰・競合・合議と替わって代表権を預けても、司る相手が自然となると、もう不在の「神」を仲介し、「絶対大丈夫」だといえる人は、居ない。

自然が想定外だからといって、この人間の歴史が積み上げてきた社会も、想定外になっているのだろうか?
いや、人の出発点は代っていないにしても、互いの孤立を補うコミュニケーションやメディアの手段は増やしてきた。
人と人の間、つまり人間としての繋がり方は、言葉とイメージの多様化と通信・情報・ネットワーク化を進めてきた。

今、科学者や政治家への訴えを有効にするには、人それぞれの現場でのコトを、共通の言葉にして、伝え、集約してゆくしかない。被災現場の現状も、避難所の惨状も、人やモノの動きや流通も、その現場からの言葉が必要だ。こえだけでは、その場で消えてしまう。

科学者や技術者が体勢を整え直すには、その言葉・記号を集約して、より有効なことだけを行い、無駄なことへの資源を絶つことだ。
(今日の独り言も、このへんでクロージングだ)

一人一人が現場で、自立的な情報を捉え・記録し・伝えあうことが、自律分散体勢の基本だ。
そして、集中すべき科学データやコントロールのための政治を、支えるべきなのだ。
国や科学者に、どうなっているのかと詰め寄るばかりでは、科学真理にたいしても、中央集権体勢に対しても、たんなる異議申し立てにおわってしまう。異議申し立てだけをやっているメディアは、「神」でも、裁判官でもないのだ。

その身近な行動の機会は、始まっている。
選挙の季節なのだ。
復旧の政治か?復興の政治か?
高齢社会での選挙が、明日を迎える体制をつくれるのだろうか?

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