>>> 本能寺の変の定説は打破された!
「歴史の真実はタイムマシーンがないとわからない」とおっしゃる方がいます。ところが現代の犯罪でも、それは同じです。和歌山毒入りカレー事件で容疑者がカレー鍋に毒を入れた決定的瞬間を目撃した証人はいませんでした。で、無罪となったのか?
それでも容疑者は有罪となりました。その判断根拠が「蓋然性」(確かさの度合)です。他の様々な証拠から論理的に考えて、容疑者が毒を入れた蓋然性が極めて高いと判断されたのです。
歴史の真実も同じであり、「蓋然性」を追求して見出すべきものです。「信長が家康を討てと書いた命令書」は存在しなくても、その蓋然性が極めて高ければ、それを歴史の真実と見るべきです。
これが「歴史捜査」の基本理念であり、現代の犯罪捜査や刑事裁判と共通するものです。最高裁は状況証拠で有罪と判断する場合の基準を設定しています。その基準が「被告人が犯人とすると矛盾なく説明することができ、かつ被告人が犯人でないとすると矛盾なく説明できない」です。これは私の採用した蓋然性による「歴史の真実」の判断基準と同じです。
残念ながら本能寺の変の通説にはこれがありません。信憑性ある証拠も論理の蓋然性もなく、光秀は子供じみた理由(恨みや野心)で偶然・偶発的に信長を討ってしまったことにされています。あるのは、秀吉による宣伝書『惟任退治記』に書かれた基本線とそれを飾りたてた軍記物という後世の物語によって作り出されたストーリー、そして軽率にもそれらにお墨付きを与えた歴史学者の現状追認だけです。信長も光秀も家康も秀吉も、およそ戦国を生き抜いていた武将らしからぬ無能ぶりで、何も考えずに信長は油断し、光秀は謀反へジャンプし、家康はただひたすらに逃げて、秀吉は幸運にも和睦をまとめて撤収できてしまったのです。
あなたは、失敗すれば家族全員が殺されるという、とてつもないリスクを犯して「いじめられた恨み」を晴らしますか?「社長になりたい」ですか?「つぶれたメンツ」を立て直したいですか?「友達にそそのかされた」だけでやりますか?
あなたは、失敗すれば家族全員が殺されるという、とてつもないリスクを犯して「偶然の成功」に賭けますか?「成功する目算も立てず」に踏み切れますか?「何の準備もしない」で始めてしまいますか?
こういった通説と拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』とどちらの蓋然性が高いでしょうか?
(注)2013年に『本能寺の変 431年目の真実』が出版されています。
拙著も読まずに「あの時点で信長が家康を討つわけがない。そんなことをしたら同盟者や家臣が信長を信頼できずに離反してしまう」とおっしゃる方がいます。
戦国時代に生き残ろうとする武将たちが、そのような「信義」の論理で判断するものなのかにも大いに疑問がありますが、「目的を果たすためには障害は取り除く」という戦国武将に当然の考え方を何故しないのでしょうか? 戦国武将だけでなく、目的を達成しようとする人は現代人でも同じように考えます。信長だって「家康を討っても離反が起きないようにする策」を当然考えます。たとえば「家康が謀反を起こして、私を殺そうとしたので逆に討ち取った」と発表すれば、それで済んでしまいます。
また、「光秀が同盟者を確保するはずがない。そんなことをしたら事前に謀反の秘密が漏れる」とおっしゃる方がいます。
これもまったく同じことです。謀反を成功させるという目的を果たすためには秘密が漏れるという障害は取り除く手を打つのが当然です。「秘密が漏れる危険があるから謀反成功に絶対不可欠な同盟者確保を行わない」と考える武将がいるでしょうか? 現代の経営者だって企業買収が必要なら事前に情報が漏れないようにして実行しますし、秘密が漏れるのが心配だから企業買収を止めようとは考えないでしょう。
拙著を読まずにあれこれ考えるのではなく、是非虚心坦懐にお読みになって論理的にお考えいただきたいと思います。
【本能寺の変の通説批判シリーズ】
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(完結編)
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(駄目押し編)
【通説では全く説明されていない当日の出来事】
本能寺の変の真相を本当に知りたい方へ!
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『本能寺の変 四二七年目の真実』のあらすじはこちらをご覧ください。
また、読者の書評はこちらです。
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>>>『本能寺の変 四二七年目の真実』出版の思い
「歴史の真実はタイムマシーンがないとわからない」とおっしゃる方がいます。ところが現代の犯罪でも、それは同じです。和歌山毒入りカレー事件で容疑者がカレー鍋に毒を入れた決定的瞬間を目撃した証人はいませんでした。で、無罪となったのか?
それでも容疑者は有罪となりました。その判断根拠が「蓋然性」(確かさの度合)です。他の様々な証拠から論理的に考えて、容疑者が毒を入れた蓋然性が極めて高いと判断されたのです。
歴史の真実も同じであり、「蓋然性」を追求して見出すべきものです。「信長が家康を討てと書いた命令書」は存在しなくても、その蓋然性が極めて高ければ、それを歴史の真実と見るべきです。
これが「歴史捜査」の基本理念であり、現代の犯罪捜査や刑事裁判と共通するものです。最高裁は状況証拠で有罪と判断する場合の基準を設定しています。その基準が「被告人が犯人とすると矛盾なく説明することができ、かつ被告人が犯人でないとすると矛盾なく説明できない」です。これは私の採用した蓋然性による「歴史の真実」の判断基準と同じです。
残念ながら本能寺の変の通説にはこれがありません。信憑性ある証拠も論理の蓋然性もなく、光秀は子供じみた理由(恨みや野心)で偶然・偶発的に信長を討ってしまったことにされています。あるのは、秀吉による宣伝書『惟任退治記』に書かれた基本線とそれを飾りたてた軍記物という後世の物語によって作り出されたストーリー、そして軽率にもそれらにお墨付きを与えた歴史学者の現状追認だけです。信長も光秀も家康も秀吉も、およそ戦国を生き抜いていた武将らしからぬ無能ぶりで、何も考えずに信長は油断し、光秀は謀反へジャンプし、家康はただひたすらに逃げて、秀吉は幸運にも和睦をまとめて撤収できてしまったのです。
あなたは、失敗すれば家族全員が殺されるという、とてつもないリスクを犯して「いじめられた恨み」を晴らしますか?「社長になりたい」ですか?「つぶれたメンツ」を立て直したいですか?「友達にそそのかされた」だけでやりますか?
あなたは、失敗すれば家族全員が殺されるという、とてつもないリスクを犯して「偶然の成功」に賭けますか?「成功する目算も立てず」に踏み切れますか?「何の準備もしない」で始めてしまいますか?
こういった通説と拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』とどちらの蓋然性が高いでしょうか?
(注)2013年に『本能寺の変 431年目の真実』が出版されています。
拙著も読まずに「あの時点で信長が家康を討つわけがない。そんなことをしたら同盟者や家臣が信長を信頼できずに離反してしまう」とおっしゃる方がいます。
戦国時代に生き残ろうとする武将たちが、そのような「信義」の論理で判断するものなのかにも大いに疑問がありますが、「目的を果たすためには障害は取り除く」という戦国武将に当然の考え方を何故しないのでしょうか? 戦国武将だけでなく、目的を達成しようとする人は現代人でも同じように考えます。信長だって「家康を討っても離反が起きないようにする策」を当然考えます。たとえば「家康が謀反を起こして、私を殺そうとしたので逆に討ち取った」と発表すれば、それで済んでしまいます。
また、「光秀が同盟者を確保するはずがない。そんなことをしたら事前に謀反の秘密が漏れる」とおっしゃる方がいます。
これもまったく同じことです。謀反を成功させるという目的を果たすためには秘密が漏れるという障害は取り除く手を打つのが当然です。「秘密が漏れる危険があるから謀反成功に絶対不可欠な同盟者確保を行わない」と考える武将がいるでしょうか? 現代の経営者だって企業買収が必要なら事前に情報が漏れないようにして実行しますし、秘密が漏れるのが心配だから企業買収を止めようとは考えないでしょう。
拙著を読まずにあれこれ考えるのではなく、是非虚心坦懐にお読みになって論理的にお考えいただきたいと思います。
【本能寺の変の通説批判シリーズ】
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(完結編)
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(駄目押し編)
【通説では全く説明されていない当日の出来事】
本能寺の変の真相を本当に知りたい方へ!
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