本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
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本能寺の変:『甲陽軍鑑』の歴史捜査(その3)

2010年12月26日 | 歴史捜査レポート
 前回は『甲陽軍鑑』の話から『元親記』や『当代記』の話へ展開しました。焦点となったのが武田攻めからの信長一行の帰路となった家康領通過です。そこで光秀方・家康方双方の家臣による同盟交渉が行われた可能性が浮かび上がりました。
 今回は家康領通過が「家康領の軍事視察」であったという拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』での主張を裏付けるエピソードが『甲陽軍鑑』に書かれているお話をしましょう。
 巻二十の三十一「織田信長いせい(為政?)之事」という章に書かれている、武田攻めを終えて甲府を出発して家康領へ向かう際の出来事です。信長一行には二月九日の命令で随行を命じられた光秀・筒井順慶・細川忠興が加わっていましたが、公家の近衛前久(このえ・さきひさ)という人も同行していました。この人物は信長と緊密な関係にありましたが、いろいろいわくのありそうな行動をする人で朝廷黒幕説では朝廷方のキーマンとされる人です。
 ★ Wikipedia「近衛前久」

 この人物がかしわ坂のふもとで「駿河を見て帰る」、つまり家康領を通って帰ると言った信長に同行を申し入れたところ、信長が馬上から「このえ(近衛)わごりよ(お前)などは木曽路を上らしませ」と拒否したのです。『甲陽軍鑑』では、これを信長の傲慢で無礼な態度として書いています。
 ところが、信長は光秀らと家康領を軍事視察して帰りたかったのです。城の守り、川にかかる橋や浅瀬、道路の状況などを調査したかったのです。そういった行動を公家に見られるのは当然困ったことになります。したがって、「冗談ではない」ときっぱり拒否したわけです。

 家康領を攻め取ろうとしたら家康領を事前に軍事視察しておくことが不可欠なことは『甲陽軍鑑』の記事からもわかります。巻十三「合戦之巻四」の「信玄公御一代、敵合さほう(作法)、三ケ条」の第一条にまず敵地の大河・大坂の情報を得ることが上げられています。また、実際に三方原の戦いの前に天竜川を渡ろうとして浅瀬がわからず、家康軍がどこを渡るか見張るように命令して場所を知ったことが書かれています。
 また、武田信玄重臣たちは「信玄が死んだら、信長は家康を殺すぞ」と話しています。織田家と松平家の抗争の歴史を知っている彼らはそのように見ていたのです。現代の歴史学者が口をそろえて「あり得ない」という話を、彼らは「あり得る」と言っていたのです。
 >>> 武田信玄重臣は信長の家康討ちを予測していた!

 歴史の真実を知ろうとしたときに現代人の犯す過ちは、当時のことを現代人の感覚で判断してしまうことです。私はこういった過ちを犯さないようにするために「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」を自戒の言葉としています。この言葉の意味するものは以下のページをご参照ください。そして何が「奇説」なのかをご判断いただければ幸いです。
 ★ 「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!

【歴史研究の落とし穴をのぞくシリーズ】
   江村専斎『老人雑話』の歴史研究
   『甲陽軍鑑』の歴史捜査(その1) 
   『甲陽軍鑑』の歴史捜査(その2) 
   『甲陽軍鑑』の歴史捜査(その3)

 甲陽軍鑑が偽書とされてきた経緯を詳しく分析した本です。
『甲陽軍鑑』の悲劇: 闇に葬られた進言の兵書
クリエーター情報なし
ぷねうま舎

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