本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

本能寺の変の定説は打破された!

2013年05月27日 | 謎はこうして解けた!
  >>> 2013年12月『本能寺の変 431年目の真実』発売
   2016年2月 37万部突破!! 
【文庫】 本能寺の変 431年目の真実
明智 憲三郎
文芸社


【2013年4月27日初稿 2013年5月27日画像追加】
 拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』(プレジデント社、2009年出版)はこれまでの本能寺の変研究が踏襲してきた数々の定説を打破しました。以下にその要点をご紹介いたします。

【従来研究との違い】
 従来の研究は江戸時代に書かれた小説である軍記物(『明智軍記』『太閤記』など)の記述を史実として採用しています。史料としての信憑性をまったく評価せずに採用しているケースもあれば、「この書は悪書であるが、良いことも書いている」として自説に都合の良い記事だけをつまみ食いする確信犯のケースもあります。
 私は「嘘つきの証人の証言の中から真実を見出す基準は作れない」と考えて、軍記物の記述は一切採用しないことにしました。また、研究者の書いた本の孫引きも止めました。私のように軍記物を一切排除する姿勢で書かれていない上、出典を書かずに軍記物の記事を史実として書いている研究書があふれているからです。
 その代わり、私は本能寺の変当時に書かれた古文書(書状など)、古記録(日記、報告書など)を徹底して読んで証拠を探しました。
 拙著巻末の参考資料の頁には『信長公記』『言継卿記』『家忠日記』『イエズス会日本年報』など30種類ぐらいが書かれています。「何だ少ない!」と思われるかもしれませんが、実は従来の研究者との大きな違いがあります。
 それは「端からは端まで読み通す」ということです。従来の研究者がどうしているかというと『大日本史料』という様々な史料から関連記事を抽出して年月日順に並べたダイジェスト版を見ているのです。「見ているのです」というのは私の想像に過ぎないのですが、そうでなければ見逃すはずのない史実に今まで気が付いていないという事実(具体的な史実は後述)は、そうとしか言いようがないのです。
 要約すると、従来研究とは証拠の収集方式と採用した証拠の信憑性が決定的に違っているのです。

【打破された定説】
●動機編
1.光秀は信長を怨んでいたわけではない。(怨恨説の打破)
 怨んでいたとしたのは秀吉である。秀吉が本能寺の変の四ヶ月後に家臣に書かせた『惟任退治記』に信長の言葉として「怨みをもって恩に奉ずる謂れ無きにしも非ず」と書かせた。信長の側近の太田牛一の書いた『信長公記』を読み通せば、信長・光秀の良好な関係がみてとれる。『明智軍記』などの軍記物が『惟任退治記』の記述を膨らませて、様々な信長によるいじめのエピソードを創作したに過ぎない。
2.光秀は天下取りを狙っていたわけではない。(野望説の打破)
 天下取りを狙っていたとしたのは秀吉である。光秀は愛宕百韻の発句に「ときは今あめが下知る五月哉」と詠み、「これぞ謀反の先兆なり」と『惟任退治記』に書かせた。しかし、この句は光秀の詠んだ本当の句を光秀の野望を演出するために秀吉が書き換えたものである。(次の3項参照)
3.愛宕百韻の光秀の発句は「ときは今あめが下知る五月哉」ではない
 光秀の詠んだ本当の句は「ときは今あめが下なる五月哉」であり、これは天下取りの意思を詠んだものではない。
     >>> これが秀吉による野望説捏造の新証拠
 以上みてきたように秀吉が書かせた『惟任退治記』がことごとく定説のもとを作っている。このことを指摘した研究者が今までいないのはどういうことであろうか。おそらく前述した「ダイジェスト版」依存がひとつの原因ではなかろうか。『惟任退治記』のたかだか20頁を端から端まで通して読めば、これが宣伝書として秀吉に都合のよい話を書かせたもので、書かれていることがどれもこれも定説のベースになっていることがわかるはずである。大日本史料にはダイジェストされていない『惟任退治記』をまともに読んだ研究者が今までいないのではなかろうか?
 もうひとつの原因としては「本能寺の変に謀略はなかった」と言い切るような、戦国武将の政治的な意図に対する感受性の欠如もあるように思える。彼らが生き残るために現代人の発想を超えた次元の総智総力を尽くしていたという理解がないようだ。(このページの文末の【拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』批判への反論シリーズ】参照)
4.四国問題はメンツや出世の問題ではない
 長宗我部征伐によって長宗我部との取り次ぎ役だった光秀のメンツが潰れた、あるいは出世の望みがなくなったことが謀反の動機とする研究者がいる。そのような理由が謀反失敗の際の一族滅亡という重大さに引き合うとは常識的に思えないのだが、加えて長宗我部元親と光秀との関係が「土岐氏」で成り立っている重要性も見逃している。土岐氏を知らずして本能寺の変を論じることは空虚である。
     >>> 四国説を嗤う
     >>> 土岐氏とは何だ

●実行プロセス編
1.光秀が重臣に謀反を打ち明けたのは前日の夜ではない
 前日の夜に初めて打ち明けたという話は『惟任退治記』の「光秀は密かに謀反をたくらむ」「この重臣五人を頭として本能寺を取り巻く」という記事をもとに軍記物が創作した話である。長宗我部元親の家臣が書いた『元親記』には長宗我部征伐の準備を知って斎藤利三が謀叛を差し急いだとの記述がある。失敗の許されない謀反の実行のためには重臣たちと綿密な事前調整が行われたとみるのが当然である。
2.穴山梅雪は一揆に殺されていない
 家康家臣の松平家忠の書いた『家忠日記』には「穴山梅雪は切腹した」と書かれている。家忠は伊賀越えをして岡崎に帰り着いたばかりの家康一行を迎えにいき、彼らに会って話をしたその当日の日記に書いている。
 そして、この日記には後日書き加えたと思われる文がある。出版されている活字化された日記には本文の上段に小さな文字で書かれており、私も今まで見落としていた。「此方御人数、雑兵共二百餘うたせ候」、つまり、家康の手の者の雑兵200人ほどに梅雪を討たせた、というのである。『伊賀者由緒記』によれば家康の伊賀越えには伊賀者190人が同行している。これが「雑兵共二百餘」のことであろう。

 ★ 家康による穴山梅雪謀殺の新証拠

 一方、途中で一揆に殺されたと書いたのはいずれも家康の伊賀越えに同行した家臣ではない。研究者の誰もが根拠にしている『石川忠総留書』を書いた石川忠総に至っては天正十年生れ、つまり本能寺の変の年に生まれた人物である。
 このあと甲斐を簒奪した家康が甲斐(一部)の領主である穴山梅雪に生きていて欲しいか死んで欲しいか、家康が彼を殺したとして、それを正直に言うかどうか。こういった武将の意図に研究者があまりにも疎いように思える。武田家の名跡は勝頼の死後、穴山梅雪が継いでいたが、梅雪死後は子の勝千代が継いだものの五年後に夭折し梅雪の系統は途絶えた。そのあと武田家の名跡を継いだ信吉とは家康五男の万千代だとご存知なのだろうか。
 本能寺の変当時16歳だった江村専斎からの聞書きである『老人雑話』には梅雪の死を「一揆に殺されたとも家康の仕業だともいう」と書かれている。彼が生きていた時代にはこのような風聞が流れていたことがわかる。
 当時は五分五分で可能性があるとされたことを「あり得ない~」としている現代の研究者はその根拠の信憑性を洗い直すべきである。なお、『大日本史料』には「一揆に殺された」と書いた後世の史料が多数ダイジェストされていることにご注意願いたい。
3.徳川家康の神君伊賀越えは「命からがら」ではない
 神君伊賀越えは一揆に襲われて命からがらの脱出行というのが定説になっており、その一例が穴山梅雪が一揆に殺されたこととされているが、その根拠は前述した通り薄弱なものである。『伊賀者由緒記』によれば伊賀越えには190人もの伊賀者が護衛に付いている。家康一行に同行していた茶屋四郎次郎の『茶屋由緒記』には家康が安全に機嫌良く帰還したことが書かれている。
 そして、何と「命からがら」逃走中とされている3日には、家康領に匿っていた武田家旧臣依田信蕃に「甲斐へ出立し、甲斐衆を引き付けよ」という書状を出している(『依田記』)。
4.徳川家康は光秀討ちに動いていない
 名著とされ研究者の誰もが参考にする高柳光寿著『明智光秀』には「家康は六月四日岡崎に帰ると翌五日すぐに光秀に対して敵対行動に出た」と書かれている。ところが、高柳氏が根拠史料とした『家忠日記』を通して読むと全く違う様相が見えてくる。

 まず、『家忠日記』には「光秀討ち」という言葉が一言も書かれていない。東陣と家忠の所属する西陣の二面作戦をとっており、京都方面に向かう西陣には十日になるまで出陣命令は出ていない。五日の命令は「出陣の用意をせよ」との命令であり、「翌五日すぐに光秀に対して敵対行動に出た」と言えるものではない。
 西陣に十日になってようやく出た命令は「十二日に出陣」だが、遠江・東三河の兵の合流が遅れて実際の出陣はさらに十四日に延期される。これが「翌五日すぐに光秀に対して敵対行動に出た」の実態である。
 この間に家康が何をしていたのかといえば、武田勝頼が滅亡して織田領となった甲斐の切り崩し工作を東陣によって進めていたのである。
 四日岡崎に帰り着いた家康は翌五日すぐに家康領に匿っていた武田家遺臣に早々に帰国して工作するように指示している(『寛永諸家系図伝』『譜牒余録』)。七日には武田家旧臣の岡部正綱に甲斐の穴山領に築城を命じている(『寛永諸家系図伝』)。十日には重臣本田信俊を織田家の甲斐領主河尻秀隆のもとへ送り、追い出しを図っている(『当代記』)。
 その後も甲斐で工作を行った結果、十四日に本田信俊が河尻秀隆に殺害される事態に至り(『三河物語』)、十八日には一揆を使って秀隆を殺害させて甲斐の織田領国を崩壊に至らしめている。
 一方、西陣は十五日に光秀敗死の報を尾張鳴海で受けるが、さらに進軍して十九日まで尾張津島に陣を張っている(『家忠日記』)。これは西陣が光秀討ちを目的としたものではないことを端的に物語っている。
 なお、六月十四日付の家康書状で美濃の武将に出した書状に「光秀討ちのために上洛」と書かれたものが『大日本史料』にダイジェストされている。この書状は近隣の武将を味方につけて自軍の進行を邪魔されないようにする目的で出されたものである。したがって、織田領の美濃の武将には間違っても「光秀支援のための上洛」とは言えない。この書状の証拠能力が極めて低いことは明らかである。
5.秀吉の中国大返しは六月六日より前に出発している
 六月四日に毛利と和睦し、六日に備中高松を撤収し七日に台風の中を強行軍で姫路城までたどり着いたという定説は秀吉自身が書かせた『惟任退治記』が書いたものである。台風の中を1日70キロ行軍することは常識的に無理であるが、加えて四日付の秀吉書状に「既に備中高松を発し、途中まで帰ってきている」と書かれているし、六日付の秀吉家臣の書状に「姫路城に入城した」と書かれている。遅くとも毛利と和睦した四日には備中高松を出発しており、六日には姫路城に入城していたことは明らかである。本能寺の変が起きることを事前に知っていたと疑われることを恐れた秀吉が『惟任退治記』に日付をずらせて書かせたのである。
 六月六日出発説も高柳光寿著『明智光秀』に書かれたことにより、研究者の誰もが疑うこともなく、むしろ逆に、四日付書状や六日付書状の方が「秀吉のウソ」と断じる始末である。

●光秀経歴編
1.美濃の明智城落城の際に脱出して越前に逃れて朝倉義景に仕えたとする根拠はない
 この話は本能寺の変から110年もたって成立した『明智軍記』の創作した話である。ところが、細川家の家記として編纂された『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』にも書かれており、それをもとに高柳光寿著『明智光秀』に「朝倉義景に仕えたというのはあるいは本当かもしれない」旨が書かれたことにより定説となってしまっている。
 『綿考輯録』のこの部分の記事は『明智軍記』を参考にして書かれたことがこの記事の前後に書かれているのだが、高柳氏は見逃したのであろうか。『綿考輯録』は『明智軍記』の成立からさらに50年もたって編纂されたものだが、そのような史料評価が十分になされていない、あるいは認識されていないのが本能寺の変研究の悲しい現状である
 高柳氏が『明智軍記』は誤謬充満の悪書だから一切参考にはしないと宣言したにもかかわらず、『明智軍記』の記述を肯定してしまったことは何とも皮肉な結果であるが、そのことが50年にも渡って研究者の誰からも指摘されないことも不思議な現象である。やはり「ダイジェスト版」依存のせいであろうか。それとも高柳氏の権威に対する信仰のようなものがあるのだろうか。
2.信長・義昭上洛時点で光秀は信長に仕えてはいない
 この話は細川家の家記として編纂された『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』に「足利義昭に信長を紹介すると光秀が細川藤孝にもちかけた」とする話とともに書かれており、高柳光寿著『明智光秀』が「光秀はすでに信長の部下になっていたことは事実とみてよい」と書いたため定説となってしまったものである。『綿考輯録』のこの部分の記述には信憑性のないことは前述のとおりである。
3.光秀は細川藤孝に仕えていた
 このことは『多聞院日記』『フロイス日本史』に明記されている。また、本能寺の変当時16歳だった江村専斎からの聞書きである『老人雑話』にも書かれている。従来は「彼らの勘違い」で無視されてきたが、朝倉義景仕官の話は信憑性ある史料に一切書かれていないのに対して、光秀と同時代の人物三人が藤孝仕官と書いている。しかも、相互に独立しており、誰か一人の記述を別の人物が写したというわけでもない。このことから当時の世の常識が「藤孝仕官」だったことがわかる。「朝倉義景仕官」が常識に変わったのは110年後に『明智軍記』が出版されてからの話である。
4.光秀は信長・義昭に両属していない
 信長・義昭の上洛後に光秀は信長にも義昭にも仕えていたとする説は高柳光寿著『明智光秀』に書かれて定説となっている。ところが、前述のように高柳氏は光秀が信長に仕えた時期を上洛前と誤認しており、このため「両属」という複雑な考えを持ってしまったのである。
 信憑性ある史料から言えることは「初めは細川藤孝の家臣として足利義昭の足軽衆となり、上洛後は出世して足利義昭に奉公衆として仕え、元亀二年(1571)の比叡山焼打ちの後に信長から近江滋賀領を拝領して信長に仕えた」ということである。
 永禄十三年(1570)正月の公家・山科言継の日記『言継卿記』に幕府の奉公衆を年始の礼に回ったことが書かれており、そこに「明智十兵衛」の名もはっきりと書かれている。この記事が研究者に認識されてこなかったのも、やはり「ダイジェスト版」依存のせいではないだろうか。『大日本史料』には『言継卿記』の記事は頻繁に使われているのだが、どういうわけかこの記事はダイジェストされていないのである。
 それどころか、『大日本史料』には信長に仕える前の光秀の記事にわざわざ「信長ノ将明智光秀○○」といったタイトルが書かれている。『大日本史料』だけを見ている研究者には「信長の家臣」であることが刷り込まれてしまっているのである。
 なお、『大日本史料』のこの巻(第十篇之三)の発行は昭和七年(1932)であることを注目願いたい。つまり80年以上前の編纂官、1926年から編纂官となった高柳光寿氏その人のフィルターにかけられて編纂されたものなのである。

 以上、様々な定説が打破されましたが、それに代わる真実は何か?
 それは拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』をお読みください。
 天正十年六月二日の早朝に起きていた重大なできごと。そのひとつが徳川家康が信長に会うために本能寺へ向かっていたということです。これが何を意味するのかを説明した研究者はこれまでひとりもいません。もちろん定説を主張する研究者には全く無視されてきた史実です。このような史実のひとつひとつが矛盾なく説明しきれなければ本能寺の変という事件の全貌が明らかになったとはいえません。
     >>> 本能寺の変の真相を本当に知りたい方へ

 なお、定説打破の根拠については以下のページに補足の説明がありますのでご参照ください。
 ★ 本能寺の変:定説の根拠を斬る!シリーズ紹介
 ★ 本能寺の変の通説に欠落しているもの

●番外編
1.光秀は「敵は本能寺にあり」とはいっていない
   >>> 「敵は本能寺にあり」を斬る!
2.「是非に及ばず」は「仕方ない」ではない
   >>> 「是非に及ばず」を斬る
3.日光東照宮に桔梗紋はない
   >>> 日光東照宮桔梗紋説を斬る
4.信長の遺体が見付らないのは謎ではない
   >>> 「見つからなかった信長の遺体の謎」を斬る

【見出し写真の説明】
 左から順に、『アビラ・ヒロン 日本王国記』、『イエズス会日本年報 上』、『ヴァリニャーノ 日本巡察記』、『信長公記』、『続史料大成 家忠日記』、『史料纂集 兼見卿記』(一、二)、『大日本古記録 言経卿記』(一)、『言継卿記』(第六、第五、第四)

【関連リンク】
 >>> 合理的推論で浮かび上がる真実の織田信長
 >>> 「織田信長公の真実」連続講座案内
 >>> 『織田信長 四三三年目の真実 信長脳を歴史捜査せよ!』読者書評
 >>> 『織田信長 四三三年目の真実 信長脳を歴史捜査せよ!』あらすじ
 >>> 『織田信長 四三三年目の真実 信長脳を歴史捜査せよ!』目次 
 >>> 「桶狭間の戦い」信長勝利の方程式が解けた!
 >>> あなたも「本能寺の変」の謎解きに挑戦できる本
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 >>> 『本能寺の変 431年目の真実』目次
 >>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
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#是非に及ばず #惟任退治記 #信長公記

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17 コメント

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感動しました (たけはマン)
2013-04-29 22:16:54
(本能寺の変 四二七年目の真実)
購入して拝読いたしました。
私も軍記物や定説には以前から懐疑的で、おぼろげながら先生のような歴史操作の手法を模索していたので
本作に出逢い感動いたしました。
願わくば先生には本能寺は勿論
(石田三成)や(関ヶ原合戦)に見られる俗説にもこの手法を以て暴いていただきたい
と、ひそかに期待しています。
これからも応援しています。
返信する
ありがとうございます (明智憲三郎)
2013-04-30 10:49:43
 御支持いただき大変ありがとうございます。
 歴史は「ピンポイントで切り出した時空だけで判断してはならない」と考えており、時代的には戦国中期から徳川幕府中期まで、地域的には畿内・関東・四国・博多・対馬・朝鮮・ポルトガル・スペインなどに広げて捜査を継続しております。
 その中で、ひとつの歴史の流れが見えてきましたので、いずれ整理してご提示したいと思います。本能寺の変が日本史上の屈折点であったことがより明確になると思います。
返信する
流石ですね (おきつ)
2013-05-29 01:56:40
 記事を読ませていただいて非常に感銘をうけました。 日本史にはまだまだ家康影武者説や桶狭間の真相や秀頼が秀吉の実の子供ではないといった説や写楽の正体など様々な謎に満ちていますね。明智先生には様々な謎に挑んでいってほしいです。
 個人的に今一番関心を抱いているのは坂本龍馬暗殺犯のしょうたいです。先生はこれについてどう思われますか? 少なくとも様々な容疑者の中でこれは犯人ではない!というのを証明してくださるとありがたいのですが
返信する
ありがとうございます (明智憲三郎)
2013-05-29 20:42:16
 歴史捜査は冤罪事件の再審請求捜査の如くに深く捜査しなければなりません。したがって、なかなか他の事件へ手を伸ばすことができません。本能寺の変の捜査は千利休切腹事件、関白秀次切腹事件まで捜査を広げていますが、坂本龍馬暗殺はしばらくお時間をください。
 私も本格的に捜査したいテーマではあります。武智半平太の吉田東洋暗殺事件も気になっています。本当に半平太の指示だったのかと。
返信する
s (Unknown)
2013-09-06 18:01:34
明智さんの説を知ってから何故光秀が近隣の武将に徳川が同盟してくれているから自分に味方してくれと伝えなかったのかずっと不思議だったのですが、要するに徳川の上洛を美濃や尾張の武将に邪魔させないためにあえてあの時点では公言しなかったということなのでしょうか。随分まどろっこしい事をしているように思います。 それと記事を読んでいて気になったのですが中国大返しを台風の中で行ったとする証拠はなんなのでしょうか。 教えていただけるとありがたいです。
返信する
拙著をお読みいただくのが (明智憲三郎)
2013-09-06 20:37:33
 拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』をお読みいただくのが、一番理解しやすいと思います。というのも、歴史は個々の出来事の断片ではとらえられないからです。出来事対応の短い説明では、おそらく本当のご理解は難しいのではないでしょうか。
 それでもご質問に即物的に回答すれば、家康が上洛するに際して織田家の美濃・尾張の武将に「光秀に味方するための上洛」というでしょうか?
 秀吉自身が書かせた『惟任退治記』の中に台風の中80キロ1日に行軍したと書かれていて、それを歴史学会では定説として公認した状態にあります。
 これだけではなく、定説には様々おかしなことがあるので、本能寺の変の真相をお知りになりたいのでしたら、まず拙著をお読みいただくようにお勧めします。
返信する
Unknown (s)
2013-09-07 16:48:47
 手元にはありませんが、書店で一通り読ませていただきました。 明智さんの説を批判する人がよく言う「もし徳川が味方だったなら光秀はそれを近隣の武将に伝えて引き込もうとしたはずだ」というのがありますが、実際は
 上洛をスムーズに行うためにあえて徳川との同盟を伏せておく→上洛が完了したら連合を組みそれにより周囲の武将を味方につける
というのが光秀のプランだったということでしょうか。確かに中国大返しさえなければ光秀の軍だけで畿内はある程度持ちますからね。 本能寺の変がよく練られた計画であったということがよく分かります。 甲斐征伐の後に信長は光秀らに三河侵攻の下見をさせていましたからその時点で光秀は計画を練り始めていたのかなと思います。
 もう一つ気になることがあります。 変の直後光秀が最も近くにいた摂津の丹羽・信孝の四国遠征軍に対して何も対応はしていない様にみえます。結果的には軍が飛散して戦わずに済んでいますが、本当になにもしなかったのでしょうか?
 飽くまで憶測ですが、本当は光秀の娘婿の津田信澄が自分の軍を率いて光秀に協力する予定だったのが丹羽と信孝に遮られ失敗したのであり、光秀も最初からそうしてもらう様に伝えていたのだからこそ対応をしなかったのだと思います。 憶測に過ぎませんが、明智さんのご意見をお伺いしたいです。
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武将の論理 (明智憲三郎)
2013-09-08 18:30:47
 以前、ブログのコメントに回答したと思いますが、武将の論理は生き残るための合理的な考え方に徹していたとみるべきで、光秀が家康を味方にしていることを知らせた方がよい相手には知らせたでしょうし(記録には残っていませんが)、知らせても効果のない相手には知らせなかったと思います。立ち読み程度では気が付かなかったと思いますが、拙著にも朝廷には話した可能性、家康が光秀に味方したと書いた唯一の史料の存在を指摘しています。
 信澄の話は全くの憶測であり、拙著のスタンスが「信ぴょう性ある証拠から蓋然性の高い真実を復元する」ことを真髄としている点をご理解いただければ、自ずと私の答がおわかりいただけるかと思います。
返信する
Unknown (s)
2013-09-10 17:01:52
 信澄の件は私の憶測に過ぎませんが、実際本能寺の変直後の光秀は周囲の武将の説得や安土城に入り、山崎の戦いまで朝廷への工作をするなど、摂津の四国遠征軍を無視した行動を取っています。 当の四国遠征軍は内部分裂を引き起こして瓦解していますが、光秀はこうなる事を予見していたから無視したのでしょうか それとも光秀の何らかの工作によってそうなったのでしょうか。 風聞だけで軍が瓦解するのかどうか不思議ですし、敵の娘婿だからといって碌な確認もせずに殺すものなのでしょうか。信孝が暗愚であったというならそれまでですが。
返信する
こんにちは (通りがかり)
2013-09-11 12:47:57
いつもブログを拝見させて頂いている者です。
『本能寺の変 四二七年目の真実』を、3年ほど前に一度読んで、最近また通読させて頂きました。改めて面白いと感じました。

細かい疑問点を挙げるときりがないのですが、大きな点で1つ質問したいと思います。貴書では、家康領への移封を謀反の理由の1つに挙げられていると思います。そして、それは自分の代だけではなく、子孫の代のことを心配してのこととされています。

しかし、子孫の代までの安定を望んだ場合、新しく領地となる家康領を平穏に治めぬくことよりも、謀反を起こして天下に号令して子孫の代まで政権を維持することの方が(家康と組んで仮に光秀の代では天下を治めきれたとしても)はるかに難しく、一族滅亡のリスクの高いことのように感じました。

また、見知らぬ地への移封を、土岐一族の結束維持に対する危機として説明されていると思います。しかし、薩摩や出羽に移る訳でもなく、尾張、美濃などから近くて肥沃な国への移封をポジティブに考えれば、新天地をうまく治めてそこにも土岐一族の勢力を及ぼしていくことで、旧来の地に既にいる勢力と合わせて、更なる勢力の向上も図れるようになるのではとも思います。

結局は土岐一族の復興も含め、天下への野心も大きかったのでしょうか。
返信する

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