本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

とうとう愛宕百韻改竄が証明された!

2013年01月22日 | 歴史捜査レポート
 拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』の中で、明智光秀が本能寺の変の直前に詠んだ愛宕百韻の発句「ときは今あめが下知る五月哉」は改竄されたものであり、正しい句は「ときは今あめが下なる五月哉」であると書きました。
 その裏付け証拠として「ときは今あめが下知る五月哉」の解釈が「土岐氏である自分が天下を取るべき五月となった」とされているが、本能寺の変が起きたのは天正十年六月二日であり、五月ではないことが不自然であることをあげました。このような指摘をした人は今まで誰もいなかったようで、私が427年目に出現した初めての指摘者だったようです。私には、誰でも直感的に感ずる不自然さに思えたので、今まで誰も指摘していないことが不思議でした。
 それだけに、私だけが感じた不自然さだけを根拠として、改竄を主張するのは客観性が不足すると考えました。歴史捜査としてはもっと確たる証拠が必要だったのです。
 捜査の結果、間違いないといえる証拠を入手することができました。それは愛宕百韻が詠まれた日の天気でした。

 拙著出版後、4年近くが立ちますが、残念ながら私が確信をもって提示した愛宕百韻の改竄は世の中に認知を得ていません。相変わらず「ときは今あめが下知る五月哉と天下取りの野望を詠んだ」とする通説がまかり通っています。
 ところが、改竄を証明する新証拠が発見されました。しかも、谷口克広氏東京大学史料編纂所の金子拓氏ら多くの信長研究で有名な先生方が推進する信長プロジェクトによってです。
 「信長学起動」というサイトに金子拓氏がエッセイを書いており、その「愛宕百韻」と『信長記』に決定的なことが書かれています。 
 ★ 「愛宕百韻」と『信長記』

 要約すると次のことです。
 太田牛一自筆の『信長公記』池田家本の原稿には「ときは今あめが下なる五月哉」と書かれている。「なる」の部分は擦り消し修正して書かれており、擦り消されていた文字は「知る」である。つまり、牛一は初め「知る」と書いたが、後に「なる」が正しいと知り、手元にあった池田家本の原稿を書き直したと考えられる。

 通説「知る」の拠り所とされている『信長公記』の記述が見事にひっくり返りました。牛一は秀吉が大村由己に書かせた『惟任退治記』の記載に合わせて初めは「知る」と書いていたのを、後になって入手した正しい句「なる」に書き直したのです。
 どうでしょうか?これでもまだ、愛宕百韻は秀吉によって改竄されていたと信じていただけないのでしょうか?
 先行していた歴史捜査に歴史研究がとうとう追いついてきたのではないかと私は期待しております。
 拙著未読の方にはピンと来ないかとも思いますので、拙著をお読みいただいて、本ブログを読み直していただけるとワクワク感を味わえると思います。

 なお、挙句(百句目の最後の句)「なお国々はのどかなるとき」についても、秀吉の改ざんとは別の理由で現代には誤伝されています。それについても『本能寺の変 431年目の真実』で解説されています。

***************************************
 
【文庫】 本能寺の変 431年目の真実
明智 憲三郎
文芸社

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光秀の百韻発句についての疑問 (Sayu Fuhmin)
2013-05-06 01:09:24
憲三郎様、
また、ご批判するようなことにもなり兼ねませんが、
よろしくご容赦下さい。、、

”時は今 あめが下なる 五月かな” と詠まれたのが、
オリジナルであるとの実証的な証拠により、
秀吉の<惟任退治記>による事変及び争乱の事後始末的公式発表が、
秀吉天下への政治的正当化を宣伝するものであったと、同時に、
光秀を悪者とすることで、その本当の真意がまったく理解されず、
間違った歴史解釈の方向へ、
つまり、現在定説化された諸説を生み出した通説の始まりである
との解明理論付けをご呈示してくださいました。
これは、未だかってない前代未聞の歴史における真実解明かと、
思わざるを得ません。

発句での”あめが下なる”の言葉に、御貴殿の<過去的土岐氏
イコール当世光秀一門>をして、大変なる内容の意味付けをもって
展開弁証なさろうとしておられるとお見受けします。
だが、このような試みは、私個人にとっては、何とも無理、
難不適であると思えてなりません。
光秀が、この句を詠む段階で、すでにその発句と、それに込めら
れた真意、あるいは自らの心の思意を合わせ持って、その場に
臨んだとしたことでしょうが、

 ”あめが下なる” でも ”あめが下しる”でも、その句の
普通の表の事象を詠い表わしたものと受けとめた場合、言葉それ
自体においては、どちらも不自然で、すっきりと意味が通らない
と言えるのではないでしょうか。
(意味の通らないものは常識的な詠会では詠句として
認められないとも言われている訳で、、、。)

もしこれが、”あめが下たる”とするならば、この句の全体から
見て、”あめが下たる”が、実に的確なるものと見られ、
本来ならば、そう詠むべきものとなるでしょう。

”五月かな”は<皐月かな>であり、旧暦では梅雨の時期を
表わしており、五月雨[サミダレ]とも言われる時でもあるが、
<皐月サツキ>は、稲の早苗を植えるに適した時期を示す和風月名で、
茅葺でも、瓦葺でも、雨が下たる様子を屋内から、いとも十分に
印象付けられます。
この時期に雷が鳴って、雨がドシャ降るといったイメージは、何か
現代的な異常気象の経験から出てきたような考えではないでしょうか。

次にその句に込められた裏の意味真意ですが、
”時は” は、<土岐は>と読めるでしょう。光秀も前々から上司、
同僚などに<某は土岐氏の出、子孫なり>を十分にアピールしていた
でしょうから、信長でさえ、むしろ異例なほどに、それを高く評価
していたのではないでしょうか。
その貴重な人材の高評価とは裏腹に、彼の劣等感なりが気持ちの上に出
てきて、光秀を貶[ケナ]したり、辛くあったりすることが偶に会ったり
したのではないかとも言えます。、、、

”時は” は、幅広く<時期は、時節は>と受けとめる事ができ、表の
意味にもなります。一方、
秘められた裏の意味では<時勢は、時代は>と受けとめる意味にも読み
解釈ができるでしょう。
したがって、<土岐は>ではなく、<時勢は>と意味したならば、

●<あめが下なる>は一体どんな意味が込められたものになるでしょうか、、、

<あめが>のアメが<内裏、朝廷>を意味する<天[アメ]>ならば、
《時勢は、今や、朝廷内裏が下になるような、そんなはっきりしない、
つゆぞらの五月の時に等しいかな》との、一つの意味解釈例にもなり兼ね
ないものともなりそうな、そんな感じでは、、主君・信長の振る舞い、
存在ゆえに、、、。

●”あめが下しる” の場合は、どうでしょうか。

<時が>を、<土岐>と見なせば、土岐イコール光秀一門で、秀吉が『惟任
退治記』によって自身のために光秀謀叛&動機をプロパガンダしたとのご指摘
解明なされた見解に一致した通説オリジナルな諸説のものとなるわけですが、
ここで逆に考えて、
たとえ光秀が自然事象的にピッタリした“あめが下たる”を用いるのが妥当
だと知っていても、当然知っていたでしょうが、その言“―下たる(滴る)”
では全く単純な<表の意味>しかなくて、自らの思い、真意なりをその言葉に
かけ秘めた裏句にはならないと見て、、、

あめが“下しる”とも“下なる”とも、そのいずれかを詠んだものと思われます。 
実際の処、原本が失われ無くなっている今、確実にこれだと知る由もありません。
写本の幾つかの内には、その両方の言葉表示が見られるという、、
現在、写本には14種あり、11本が“下しる”、あと3本は“下なる”である
とのご紹介、、それによる
憲三郎様の<歴史捜査>の追求視点の凄さ、素晴らしさがうかがえますが、、、

そんな現実事情そのものから、さらに踏み込んで、元の原本は<-下なる>で
あったが、秀吉がそれを<-下しる>に改竄させたと、、、一方的に判断、決め
付けるのはどうかと思えてなりません。
連歌師・里村紹巴は秀吉により訊問され、圧力をかけられ、連座の咎めを受けか
ねない状況になったという一件が事実ならば、それも見方により、正、反どちら
にも受けとめられるものとなる、、、、

ともかく何はともあれ、
光秀の詠んだその発句には、確かにそれに続く脇句、第三句の意味の適、不適に
関係なく、その句自体に、その後、
数日の内に引き起こされる<変>に関わる<大変なキーワード句>となっている
との推察、断定が正しいかどうかの見極めも非常に難しい事になると思われますが、
秀吉がその<愛宕百韻>を利用したという事実がまたまた先入観となって、、、

むしろ光秀自身の立場から言えば、その<なぞ>つまり<それに秘められた秘密の
事>を、誰一人決して紐解くことができないと、彼自らが思っているからこそ、
あえてそのように詠んだものであったと言えるのではないか。
“天下の許で、それを知る者は一体誰ぞや”、、、、

“時は”が、色々に意味解釈できるからこそ、余計にその<なぞ>が深まると
いったようなもので、、、、
その“時は”つまり、その<変は>ともなり、今や“アメ”<天=神>のみぞ知る、
<我々を><我々の事を>、 
その<我々とは>、一体誰だ、、決して土岐系一族を示すもの、意味するものでは
ないのではないか、、、(今やそんな読み解釈も出てきてしまう。)
そうであるからこそ、<あめが下しる>と、あえて詠んだものかも知れないと、、

何か私の自論を展開するようなものになって申し訳けない事ですが、とにかく自分に
とって、憲三郎様の愛宕百韻に係わる非常に優れた<歴史捜査>の成果に教えられる
ところ大であり、それ故にまた、自分の内に新たに疑義なる点が生じ、その余地を残
していると強く感じる次第です。
返信する
Unknown (歴史数寄)
2020-01-23 21:41:29
>>「ときは今あめが下知る五月哉」の解釈が「土岐氏である自分が天下を取るべき五月となった」とされているが、本能寺の変が起きたのは天正十年六月二日であり、五月ではないことが不自然であることをあげました。このような指摘をした人は今まで誰もいなかったようで、私が427年目に出現した初めての指摘者だったようです。

この句が五月に実際に詠まれていたとすれば、一月前から信長を討つ機会を窺っていたことになり、突発的な行動で本能寺の変を起こしたわけではない証拠だと、そういう風に理解されてきたようです。
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