あかない日記

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朱舜水と小石川後楽園

2020-05-26 | 人物忌

 

 小石川後楽園(東京・文京区後楽1丁目)

 

前回 朱舜水・徳川光圀について
触れたが 
その関係は 
ここ小石川後楽園にもあった。

 

説明文には

「 特別史跡
  特別名勝 小石川後楽園

 江戸時代初期、寛永6年(1629年)に
水戸徳川家の祖である頼房が、
江戸の屋敷の後園として造ったもので、
二代目藩主の光圀の代に完成した庭園です。

光圀は造園に際し、明の儒者である
朱舜水の意見を取り入れ、中国の教え
「(士はまさに)天下の憂に先立って憂い、
天下の楽しみに後れて楽しむ」から
後楽園と名づけました。

庭園は池を中心にした
「回遊式泉水庭園」になっており、
随所に中国の名所の名前をつけた
景観を配し、中国趣味豊かなものに
なっています。

そして、これらによって湖、山、
川、田園などの景観が
巧みに表現されています。

この地は元々小石川台地の先端にあり、
神田上水の分流を引き入れ
造園されました。

また光圀の儒学思想の下に
造園されおり、明るく開放的な
六義園と好対照をなしています。

なお、後楽連は昭和27年3月、
国の文化財保護法により

特別史跡及び特別名勝に
指定されています。

特別史跡と特別名勝の二重指定を
受けているのは、都立公園では
浜離宮とここの二つだけです。

全国でも京都の鹿苑寺(金閣寺)、
慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院の
五か所だけです。

        東京都   」


後楽園は 徳川頼房が幕府から
76,689坪(253,500㎡)の土地を拝領し、

そこに屋敷を設けて上屋敷
(明暦の大火以前は中屋敷)とした

小石川邸の附属庭園である。

光圀は 小石川後楽園の設計では、
朱舜水の意見を取り入れて、円月橋、
西湖など中国趣味豊かな
庭園として完成させ 
園名も選ばせて「後楽園」と命名した。

この後楽園の名は 
中国の范仲淹(はんちゅうえん)
「岳陽楼記」
から引用している。

ウィキペディアによれば

范仲淹(はんちゅうえん)の「岳陽樓記」は、
1044(慶暦4)年に中央から岳州太守へ
左遷された滕宗諒が、岳陽楼を修復した際、
同年の進士だった范仲淹に
作らせた文章である。

「古文真宝」に収められ、
名文として広く知られる。

特に、末尾の一節から
「先憂後楽」という語が
生まれたことで著名

…居廟堂之高,則憂其民;處江湖之遠,
則憂其君。是進亦憂,退亦憂;
然則何時而樂耶?其必曰:
「先天下之憂而憂,後天下之樂而樂」
乎!噫!微斯人,吾誰與歸!

…朝廷の高い位にあるときは、
おのれの民を憂い、
人里離れた所に
隠れ住むときは、
わが主君のために憂う。

進んで仕えていても憂い、
退いて民間にいても憂うるのだ。


とすればいつになれば楽しむのか。


その人は必ず

 「天下の人の憂いに先立って憂い、
  天下の人の楽しみに後れて楽しむ」
というであろう。

ああ、そうした人がいなければ、
私はいったい誰に帰依すればよいのか。

 

この精神は 後年
代藩主斉昭によって開園した水戸の
偕楽園の造園趣旨にも表れている。

斉昭自ら「偕楽園」と名づけたが
「偕楽」とは 中国古典である「孟子」の

 「古の人は民と偕に楽しむ、
    故に能く楽しむなり」
という一節から援用している。


*「岳陽楼」は 
中国湖南省岳陽市にある楼閣。
洞庭湖の東北岸に建つ、

高さ20.35mの三層の木造建築であり、
眼下に広大な洞庭湖、北長江を
臨む雄大な景観で知られる。