たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『アガサ・クリスティー自伝』(下)-「結びのことば」

2023年05月23日 15時58分13秒 | 本あれこれ

『アガサ・クリスティー自伝』(下)-「第十一部秋-Ⅲ」より
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/362d6704aa01300db94ceea8dddf12b6



「自分の自伝を書きたいという切なる望みが突然ニムルッドのわたしの家-ベイト・アガサでわたしを襲ってきた。

 わたしは当時までに書いていたものを振り返ってみて、満足だった。わたしは自分のやりたいと思ったことをやった。わたしは旅にある。過去へ戻る旅ではなく、前へ行く旅である-すべて始まりからの再出発であるー時を通して前へ進む旅へ乗りだした”わたし”へ戻ることである。わたしは時間や空間に束縛されたことがない。自分の望む所へ立ち止まっていることもできたし、自分の欲する通りに前へもうしろへもとんだ。

 わたしは自分が覚えようと思ったおとを覚えていると思うー何かわけのわからないおこしなことを覚えている。そんなふうにわたしたち人間は作られている。

 そして今、わたしは75の年齢に達している。もう書くのをやめるちょうどよい時のように思える。それは人生に関するかぎり、もういうべきことはこれですべてだからである。

 わたしは今、借りた時間で生きている。避けることのできない呼び出しを控え室で待っている。そしてそれから・・・どんなものであるか知らないが、次のことへと進んでいく。幸い、気をもむこともない。

 今、わたしは死を受け入れる心構えができている。わたしは異常なまでに幸運であった。わたしには自分の夫、娘、孫息子、親切な娘むこがあるーわたしの世界を作り上げている人たちである。わたしはまだこの人たちみんなにとって完全な厄介者になる時期には達していない。

 わたしはいつもエスキモーを賛美している。ある天気のいい日、おいしい料理が愛する老母のために作られ、そしてそれから彼女は氷の上を遠くへと歩み去る・・・そして帰ってこない・・・

 人はこのような生との別れ方を誇りとすべきである・・・堂々とそして決然と。

 これらの大いなる言葉をかくことは、もちろん、大へんにけっこうである。本当にあるであろうことは、わたしはおそらく93歳までも生きるだろう、そしてみんなのいうことが聞こえなくてみんなを気違いみたいにしてしまい、最新式の補聴器にきびしく苦情をいい、やたらと質問をしてはその答えをすぐ忘れて、また同じことを聞き返すだろう。わたしは自分を毒殺しかけたといって患者付添看護婦を責めたて大げんかをするとか、りっぱな老婦人のための最新施設からとび出しては、心配している家族の絶え間ない苦悩の種となるだろう。そして、しまいに気管支炎で倒れると、もそもそぶつぶついうであろう、「これでほんとうにありがたいことに楽になると思わないではいられません・・・」

 そしてそれはありがたい、(彼らにとって)楽になるに違いないし、最高のいいことがおきたことになるのである。

 それまでは、死の控え室にまだ気持よく待っている間、わたしは楽しみを味わう。もっとも、過ぎゆく年ごとに、楽しみのリストから何かを×印をつけて抹消しなければならなくなる。

 長い散歩が消される、そしておやおや、海水浴、ヒレ肉のステーキやリンゴ、生のキイチゴ(歯がだめ)、そして細かい活字を読むことも抹消。でも、まだ残されているものもたくさんある。オペラやコンサート、それに読書、そしてベッドへどたんとはいって眠り、種々雑多な夢を見ること、またしばしば若い者が会いにやってきて、びっくりするほどやさしくしてくれることなど。そして中でもまず最高は、日なたぼっこをしながら、・・・うつらうつらすること・・・そしてまたしても思い出す。
 「おぼえてる、おぼえてる、わたしが生まれた家のこと・・・」
 いつもわたしの心はそこへ戻っていく。アッシュフィールド。

  おお、わがいとしの家、わが巣、わが宿、
  過ぎにし住い・・・おお! わがいとしの家よ・・・」

 ほんとうにそう思う。わたしが夢を見る時、めったにグリーンウェイやウィンターブルックの家のことは夢に見ない。いつもアッシュフィールドの家ー古いなじみの道具立て、そこで、わたしの命が最初に息づいたところ、夢の中の人物が今日の人たちであっても、この家をわたしはほんとに隅々まで知っているー台所へ通じるすり切れた赤いカーテン、広間の暖炉火格子についていた真鍮のヒマワリの火除け、階段のトルコじゅうたん、ダーク・ブルーと金色とが浮きだしになっている壁紙の張ってあった大きく古ぼけたわたしの”教室”など。

 わたしは行ってみた・・・アッシュフィールドの家ではなくて、アッシュフィールドがかつてあった所に、一年か二年前だった。遅かれ早かれ行ってみなければと思っていた。たとえ心が痛むことになるにしても、わたしは行かずにはいられなかった。

 今から数年前、誰からか手紙が来て、あの家が取りこわされて、その敷地に新しい家がたてられるのをご存知だろうか、というのだった。何とか救ける気はないのだろうか・・・あんなすばらしい家・・・かつてわたしがそこに住んでいたと聞いたものだから、とあった。

 わたしは弁護士に会いにいった。わたしがあの家を買い取って、老人ホームか何かに贈呈するようなわけにいかないものだろろうか、と聞いてみた。だが、それは可能でないとのことだった。四つか五つの大きな別荘や庭園が一括して売られ、全部取りこわして、新しい”家”が建築されるのだという。だから愛するアッシュフィールドだけを執行停止にするわけにいかないという。

 それから一年ぐらいして、わたしは決意を喚起し、バートン・ロードに車を走らせた・・・

 そこには記憶をかき立てるような荷物もなかった。今まで見たこともないような、みかけ倒しの安っぽい小さい家がそこには何軒も建っていた。大きな木など一本も残っていなかった。森のアッシュの木などなくなり、大きなブナの木、ニレの木、セコイアの木、松の木、菜園の境にになっていたニレの木、黒ヒイラギの残がい・・・いったいどこにあの家があったのか、わたしは心の中に測定することさえできなかった。すると、ただ一つの手掛かりがみつかった・・・かつてはチリー杉であった残がいが、ごちゃごちゃした裏庭で懸命に公然と生き残ろうと抵抗している残がいだった。どこにも庭のかけらもなかった。みなアスファルトだった。緑をみせる草の葉一枚なかった。

 わたしはその残がいに向って、「勇敢なチリーの木よ」といって、そこを後にした。

 でも、どうなったかを見た後は、あまり気にならなくなった。アッシュフィールドはかつて存在していたが、その時代は終わったのだ。そして、かつて存在したものは何であろうと永遠に存在するものだから、アッシュフィールドはやはり今もアッシュフィールドである。それを思う時、もはや苦痛の種にはならなくなった。

 ことによると子供がプラスチックのおもちゃをしゃぶりながらゴミ箱のふたをどかどかたたいているかもしれない、ある日、もう一人の、薄色の金髪をソーセージ・カールにして、ひどくまじめくさった顔をした子供をじっと見つめているかもしれない。まじめ顔の子はチリー杉の木のわきの、妖精がダンスをした跡だといわれる特に緑の濃い芝生のところに立って、輪まわしの輪を持っている。彼女は初めの子がしゃぶっているプラスチックの宇宙船をじっと見つめているし、初めの子は輪まわしの輪をじっと見つめている。彼女は輪まわしの輪が何なのか知らない。そして彼女は幽霊を見ていることに気がつかない・・・。

 さよなら、愛するアッシュフィールド。


 思い出す多くのことども-花のじゅうたんを踏んで歩いていったシーク・アディのエジディ神殿・・・おとぎの国の都イスファハンの総タイル張りの大回教寺院の美しさ・・・ニムルッドの家の外の真赤な夕日・・・夕暮れのしじまの中のシリシアンの門で列車から降りたこと・・・秋のニュー・フォレストの木々・・・トーベイの海でロザリンドと泳いだこと・・・マシューがイートン校対ハロー校のクリケット試合に出場したこと・・・マックスが戦争から帰ってきて、一緒に燻製ニシンを食べたこと・・・多くのとてもたくさんのこと・・・あるものはばかげていて、あることはおかしく、あるものは美しい。大願望の二つの頂上が極められたことー英国女王と食事を共にしたこと(ばあやがどんなに喜んでくれたことだろう・・・「子ネコちゃん、子ネコちゃん、どこ行ってきたの?」とー”ふくれ鼻”モーリスを誇らしくも手に入れたことーわたし自身用の車! 一番痛烈だった経験-カナリヤのゴルディーがもう絶望と思われた一日の後にカーテン支えの棒からぽいととび降りてきたこと。

 子供がいう、「おいしし食事、神さまありがとう」

 75歳のわたしは何といったらいいのかしら?「わたしのよき人生、わたしに与えられたすべての愛、神さま、どうもありがとう」

 ウォーリングフォードにて       1965年10月11日」

 


(『アガサ・クリスティー自伝(下)』乾信一郎訳 早川書房 1982年8月10日5刷、433-438頁)


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