たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『たんぽぽのお酒』より(2)

2022年08月07日 16時13分45秒 | 本あれこれ
『たんぽぽのお酒』より
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/13e36a5f668907129cf8ff6e1284985b



「彼女は夜ふけまで何時間も、トランクや装身具類のあいだで、目をさましたまま横になっていた。こぎれいに積みあげてある道具や小間物や観劇用の正装の羽根飾りに彼女はちらと目をやると、大声で、いった。「これはほんとにわたしのものなのかしら?」

 それとも、それはひとりの老婦人が自分には過去があるのだと自ら納得するために苦心して仕上げたごまかしなのだろうか? 結局のところ、一つの時間は、いったん過ぎてしまえば、もう終わりなのだ。人はいつも現在にいるものなのだ。自分はかつては少女であったかもしれないが、いまはちがう。自分の子ども時代は過ぎてしまい、なにものもそれを取りもどすことはできはしない。

 夜風が部屋に吹きこんだ。白いカーテンが黒ずんだ杖にはためいたが、この杖は多年のあいだほかの装飾的骨董品の近くにならんでその壁にたてかけられていたものだ。杖はゆれて、低いドサッという音とともに、月光の射すところに倒れてきた。杖の先の金の石付きがきらきら輝いた。それは彼女の夫の観劇用の杖だ。まれに二人の意見が合わないとき、よく夫がしていたことだが、いまあたかも、夫がその杖を彼女にむけて、静かな、悲しげな、分別のこもったあの声でいっているかのようにおもわれた。

「あの子どもたちは正しいのだのよ」と、夫はいったことだろう。「あの子たちはおまえからなにも盗(と)っていったわけじゃないんだよ、いいかねおまえ。これらのものはここにいるおまえ、いまのおまえのものじゃない。彼女のもの、つまりあの別のおまえのものだったのだ、ずっと昔に」

 ああ、とベントレー夫人はおもう。するとそれから、まるで昔の蓄音機のレコードがかけられて、鉄の針の下でシーシー音をたてだしたかのように、彼女がかつてベントレー氏と交わした会話を憶(おも)いだした-ベントレー氏は、とてもきちんとして、さっとブラシをかけた衿の折りかえしにピンクのカーネーションをさしていたが、こういった。「ねえおまえ、おまえはいつまでたっても時間というものがわからないんじゃないだろうかね?おまえはいつも、今晩おまえが現にある一個の人間であろうとするよりも、過去にあったものごとになろうとつとめているね。どうして入場券の使いのこりや劇場のプログラムをしまっておくんだね?あとになって苦しくおもうだけだよ。捨ててしまいなさい、おまえ」

 しかしベントレー夫人はかたくなにそれらをとっておいたのだった。

「それはうまくいかないよ」と、ベントレー氏は、紅茶をすすりながら、つづけたものだ。いくら一生懸命いおまえがかつてあってものになろうとしたところで、いまここに現にあるものにしかなれないのさ。時間というのは催眠術をおこなうものでね。9歳のときには、いままでずっと9歳で、これからもずっと9歳のように考えるものなのだ。30歳のときは。自分がいつもその中年の輝かしいふちにいて、ちょうどうまく均衡をとってきたもののようにおもえるのさ。そしてさらに70歳を越すと、いつも永久に70歳でいるわけだ。現在のなかにいるわけで、若い今とか、年老いた今とかに、罠にかかったようにつかまってしまうのだが、そのほかに今を捜してもむだなのさ」

 それは彼らの平穏な結婚における、いくつかの、とはいえ軽い、口論の一つだった。彼女が物を骨董品のようにためこむのを夫は一度でも是認したことはなかった。「おまえのあるがままでいなさい、おまえがないところのものを埋めてしまいなさい」と、彼はいった。「入場券の使いのこりなどはごまかしだよ。物をしまいこむのは魔法のトリックなんだな、鏡のついた」」

(レイ・ブラッドベリ著、北山克彦訳、『たんぽぽのお酒』晶文社、1997年8月5日初版、1999年1月10日二刷、121-123頁より)
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