たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

熊沢誠『女性労働と企業社会』より(3)

2017年06月02日 16時59分47秒 | 本あれこれ
「工場パートの労働者像

  1970年、西川朋子(仮名)は中学校を卒業し、当時は電車も信号もなく青い海とサトウキビ畑だけがあった鹿児島県徳之島から、集団就職で大阪府泉州の森田電工に入社した。 はじめに割当てられたのは、テレビの基器にニセンチほどの部品を差し込む作業だった。コ ンベアのスピードに遅れぬよう、不良品を出さぬよう、つねに両手で同時に二つの部品を定位置にはめる正確さと速さが求められる作業。中卒は当時「金の卵」だった。会社の発展のためがんばってほしいと励まされて8時から17時まで、時には残業して働いた。母子家庭で育った彼女は、初任給1万7,000円のうち5,000円を母に仕送りし、5,000円を貯金した。しかし余暇には都会の楽しみもあり、「わくわくするような日々」だった。製品と作業の細部 は転変したが、会社が大好きだった。72年の工場火災の後も「私たちががんばって再建するんや」との思いだった。

  そうして8年勤続したあと、結婚して出産した西川は、赤ちゃんを預かっ てくれるところがないためやむなく退職する。そして子供のおしめもとれた2年半後、彼女はまた働きたいと申し出ている。しかし会社の対応は、西川には信じがたいことに「 25歳すぎの子持ちの女性は正社員として採用しない」であっ た。以降西川は、同じ工場で今度はパートタイマーとして、ジャー、ラジカセ、電子レンジ、扇風機、電気毛布……などさまざまの製品について部品組み付け、ハンダ付け、検査、梱包といった似たような仕事を20年近く続けてきた。しかしパートになって気づくのは、パートと正社員とでは、仕事内容も労働時間すらも同じなのに、処遇が違いすぎることだった。たとえば一時金は、月数で本工の3分の1 、金額で3分の1だった。1980年、のちに組合長のまま和泉市市議になる上田育子のよびかけで 森田綿業・電エパート労働組合がついに結成される。西川は加わって、既婚で子供をもつためにこの職場ではパートになるほかはなかった人びととの絆を新たにした。集団就職による九州の出身者、また大阪府の繊維関係の工場での労働体験をもつ人が多かっ た。なかまの絆は固く、組合はたとえば、腱鞘炎の発生を契機に、単純で高密度の仕事を軽減するため作業のコンベア方式をテーブル方式に変えさせる、生産台数については事前協議制を要求するなどの画期的な営みも行っている。 本工化要求は通らなかったが、労働時間は6‐7時間にそろえた。増額を要求しても昇給は年に20‐35円程度であったが、その 額でさえ年齢、働きぶり、勤務態度、組合活動などによって個人的に恣意的な格差を設けようとする会社に対して、組合は差をつけるなら1円以内にせよと主張したこともある。

 組合の要求で夏は30度をこえるような職場のエアコンが改善され、制服が支給されるようになった。社会保険の適用者もふえた。社員旅行の参加も正社員と平等になって、これは彼女らの大きな楽しみとなった。なかまの一人、新留照子の息子が甲子園大会に出場すると、みんなが応援できるように上田組合長が課長にかけあって、実況放送が職場に流される――そんな 職場の日常にかかわる組合だった。

 組合が活動をはじめると、「もの言わぬパート」を望む会社はさっそく切崩しを試みている。85年のストライキ闘争を経た88年ごろには上田組合長が、ついでそれに抗議した4人が劣悪な環境の作業場に「隔離」された。この措置は地方労働委員会の和解で救済されはしたが、上田は退職を余儀なくされる。そんないやがらせに82年からはパート採用そのものが停止になったことが重なって、組合員はパートタイマーの約半分、つよい絆で結ばれたヴェテラン9名になった。

 1998年4月、厳しい不況に悩む会社は、「全従業員から70名の希望退職募集、応募者が満たないときは指名解雇」と発表し、希望退職に応じなかった平均勤続年数が19年の9名全員を容赦なく解雇した。この措置がたんに「リストラ」ではなかったことは、同時に関係
2社から派遣されたパート、アルバイトが雇われたことからも明らかである。パート組合が退職金の制度化をめぐる一14年にも及ぶ会社の団交拒否を大阪地労委に申し立て、その件が審間中であったという事情もある。会社はこの際、人員整理にことよせてパート組合その ものの消滅をはかったのだ。9名は泉州、大阪の労働諸団体によびかけ、また励まされて、提訴をふくむたたかいに入った。

 たとえ時給は850円程度、年収は150万円程度であっても、その収入は子供の教育費な どがかかる彼女らの生活に不可欠である。組合活動の成果で加入した厚生年金が中断になるのも、老後を考えるととても不安だった。年齢や技能の点で、もうどこへでも行けるわけではないという自覚もある。しかしそれ以上に9名を抵抗に向かわせたものは、一つには、「森田は人生のほとんどを過ごしてきたところ」(西川)という思いだった。会社にとってはパートはたんに使い勝手のよい取替えのできる労働力であっても、彼女らにとっては、少女のころから中高年に今に至るまで営々と続けてきた「フルタイム」に近い工場労働が、地味ながらまともな人生のあかしだった。突然の解雇はそれゆえ、この庶民的な人々のアイデンティティを根こそぎにするものにほかならなかった。それに今ひとつ、彼女らは、 仕事そのものこそ「自己実現」的なものでなかったにせよ、なじみの職場に愛着があった。その職場をなじみの仲間とともにいくらかは改善する力もたくわえていた。その力はまた、先のアイデンティティと相まって、今さら会社の言うがままにはならない、「平々凡々の主婦の人生やったけど、私らはふつうのパートとはちょっと違うってプライド」がある(取溜ミサ子)という思いを支えてもいたのである。闘いは以降二年ほど続くことになる……(以上 、 泉州労連森田電エパー ト労働組合1999、私自身のききとり1998)。」


(熊沢誠著『女性労働と企業社会』第二章企業社会のジェンダー状況_五つのライフヒストリー、2000年10月20日、岩波新書発行、42-45頁より引用しています。)

**************

 労働組合が労働委員会に申し立てをするのはあくまでも、会社が団体交渉に応じないことを不服とするもの。そこで会社を交渉のテーブルに引きずり出すだけでも簡単なことではありません、特にハケンの場合はですが・・・。

 今の私ならなにが書かれているのかとてもよくわかります。大切な人生の中の、少なくない時間を過ごし苦労を重ねてきた会社との闘いを望む人なんていません。でもなにかモノ申せば、会社という組織が、はいすみませんでしたと過ちを認めて頭を下げることなってあり得ないので闘いにならざるを得ません。


 経団連加盟企業が就活解禁、「いい大学」の学生たちが狭き門である「いい会社」を目指していることが昨日報道されていましたが、そんなのほんの一部の話だし、必死に狭き門を目指す「いい大学」の学生たちがわたしには哀れにしか映りません。わたしが本当に「いい会社」を知らないだけなのかもしれませんが、数字をあげなければならないのが会社である以上、「いい会社」なんてないんじゃないかとわたしなりに思います。あくまでもわたしの経験から思うことですが、会社とは残酷なもの。数字のためなら人は使い捨て、使い勝手がいいようにしか考えないです。見境なく「いい会社」を目指し、あの会社にいけば自分のやりたいことができるとか、自分のやりたいことをするためにこの会社のリソースを利用できるとかばかげたことは考えないほうがいいですよ。会社は数字。「いい会社」ほど若い人を大切に育てていこうとする風土は希薄かもしれませんよ。日本株式会社はいつまで学生たちにこんな可哀想なことをさせるんでしょうかね・・・。




女性労働と企業社会 (岩波新書)
熊沢 誠
岩波書店