医師日記

「美」にまつわる独り言です
水沼雅斉(みずぬま まさなり)

ちょらちょらな美作13

2008年10月30日 14時24分20秒 | Weblog
 人間の思考・思弁は自己の脳内で発生し、だらだらと渦を巻き、断片が重なり、流れたり、オーバーラップしたり、消滅し、新たに生まれたり、途切れたり、強くなったり弱まったり、モヤモヤしたり・・・・

 ところがそれらを表現すべく口語や文語へ変換した際にはギャップが生まれ、やっとこさ変換した言語を媒介して自分の本意が正確に他人に伝わるかどうかには、今度は受け手側の問題という新たなギャップが生じます。

 伝えるだけでもギャップがあるのに、それを伝わり聞いた他人が、次にその事象をどう評価するかにもさらなる大きなギャップがあります。

 自分にとっては大きな問題でも、伝えた相手にとってさしたる問題でもなかったり、相手の腹が減っていたり、ほかの事を思案中であったり、邪魔が入ったり、屁が出たり(町田節)、地震が来たり。

 そして、次にその思弁に基づく行為を自分が為す場合、思考と行為のギャップが本人の側に発生し、その上たとえばいくら本人が善行を積みたい、清く正しく美しく生きたいと望んでも、それが許されない周囲の状況があったり、共同体が存在したり、必ずや出現する仇敵・・・・などのギャップがまたもや生じます。

 さらにはその善行自体がよく考えると、功徳を積めば自分が天国に行けるだとか、実は自分のためだったりする、という間接的利己主義、偽善というギャップも生じます。

 ギャップの多重奏、ギャップ責めです。

 反対の反対は賛成なのダ!

 つまり、ギャップのギャップのギャップのギャップにより、他人から見ていかにも人を殺しそうなごろつきが、当の本人の本心では本当は人を殺したくないのに、結果として殺す状況に堕ちていく・・・。

 誰が悪いかといえば当然殺人者ですが・・・悲しすぎる。

 そのような本来は重い重いテーマをひょうきんな河内弁で、くどくど、ぐだぐだと疾走(どんな疾走だ?)させますが、しょーもないギャグをからめて、残虐に崩壊させまくるパンクぶりです。





 また、当たり前ですが、誰にとっても自分はスペシャルな存在であって、自分をこよなく愛したりします。

 度が過ぎるというか、他覚されればナルシストの誹(そし)りを受けますが、自分をスペシャルと捉えない人はいないのではないでしょうか?

 で、自分の思弁が自分にとって真実だとしたら、自分の内なるコスモスが真実であって、体外、外の世界はやはりうつしよ、浮世であり、共同体の倫理とはいわば、個人の思弁という真実の部分を個人の体の内部に残しつつも、自分の人格や思弁の何割かを外界に漂流させた自我の分身、うつしおみ、空蝉(うつせみ)の合算・・・かな。

 その空蝉の漂流体の中で一見して何も思わず生きていける者もいるかもしれないが、たいていの人は少なからず自分が属する共同体や身の回りの状況に違和感をもっているはず。

 自分の思弁が伝わらない疎外感やもどかしさを持っている人ってのは案外多いはずで、自分の中の熊太郎が大なり小なりいるのではないだろうか?

 うまく事が運ばない、伝わらない、違和感、疎外感ということは、自分が望むようには・・・ということ。

 しかし自分の思弁は自分にとって真実であるかもや知れないが、他人にとって、共同体にとって都合がよいとは限らないし、ましてや正義足りえず、そもそも真実や思弁など確固たる存在なのか?